2015年2月8日日曜日
マタイによる福音書14:13-21「神の憐れみの物語」
「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。」イエス・キリストは、私たちをいやしてくださる方です。方々の町からイエスを求めて人々が集まってきます。イエスは私たちが生きる世界の苦しみをよくご存知なのです。そこに生きる私たちを憐れまれます。「憐れみ」は自身の腹を痛めることです。そんなイエスにお目にかかるために、人々は人里離れた場所までやって来ました。イエスがそのような場所に行かれたのは、祈りをするためであったようです。私たちにも必要なのです、「人里離れた所」に行き、神と出会うことが。日曜日、主の日の礼拝こそ、主がおられる人里離れた所に他なりません。もちろん、6日間の仕事や生活は大切です。神が与えてくださった尊い務めです。しかし、この騒がしい世界で生きるためにも、人里離れた所で神と出会う時が、大切なのではないでしょうか。弟子たちにとって、人里離れた所は不便な場所でした。夕暮れを迎えたとき、弟子たちはイエスに訴えます。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」この人里離れた場所には世界のルールが通用しません。それは自己責任と呼ばれるルールです。ここにはパンが五つと魚が二匹しかない。自分たちが食べる分すら足りない。群衆は群衆で自分の面倒を見るべきだと弟子たちは考えました。第一、自分たちも疲れているのです。しかし、主イエスはそのわずかなパンと魚を指しておっしゃいます。「それをここに持ってきなさい。」この言葉はもう少し正確に訳すと、「それをここ、私に持ってきなさい」となります。弟子たちは、人里離れた「ここ」ではなく、世間一般のルールが通用する場所でないと群衆の面倒を見られないと考えました。しかし、イエスはそうではありませんでした。「それをここ、私に持ってきなさい。」イエスがおられる「ここ」で、神が彼らを養ってくださると言われるのです。私は今ある痛みを持ってこの物語を読んでいます。私も弟子と同じだと思うからです。教会には傷ついた人がたくさん訪れ増す。世間のルールに適応できるようにならないと、言葉を換えれば「普通」にならないと問題は解決しないと思ってしまうことがあります。しかし、主イエスはご自分がいる人里離れた所、「ここ」に持ってこいと言われます。神を礼拝することでこそ、私たちが本当にいやされるからです。それは浮き世の憂さを放棄するためではありません。私たちが再び「人里」で生きることができるために、いやし、養ってくださるのです。この礼拝で、主はあなたをいやしてくださいます。
2024年4月26日の聖句
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