2015年4月1日水曜日

マルコによる福音書第14章1から11節(2015年4月1日・受難週祈祷会水曜日)

1.
主イエスの十字架に向かって、時が進んでいる。新共同訳はこの日の出来事を三つの段落に分けているが、どれも、イエスの死への備えを伝えている。最初と最後に登場するのは祭司長たちで、彼らは律法学者らと共に「何とか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた」。しかし、「民衆が騒ぎ出すといけないから、祭りの間はやめておこう」と話し合った。あと2日すると過越祭が始まる。ユダヤ最大の祭り。都には大勢の人が集まる。イエスを殺す陰謀を巡らすには、悪い時期であった。
しかし、10節になると、彼らにとっては想定外でもあり、渡りに舟でもあったのだろう。イエスの弟子の一人で会えるイスカリオテのユダが来て、イエスを引き渡したいと話を持ちかけてきたのである。「彼らはそれを聞いて喜び、どうすれば折りよくイエスを引き渡せるかとねらっていた」。イエスを殺そうとする計略が巡らされている。これが、イエスの死への一つの備えである。

2.
しかし、ここにはもう一つの美しい物語が語られている。即ち、間に挟まれた3から9節だ。
主イエスは重い皮膚病の人シモンの家に行かれ、食卓についておられた。するとそこに一人の女が入り、「純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持ってきて、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」のである。周りの人は驚いたに違いない。いや、それどころか、憤慨した。しかし、主イエスはおっしゃった。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」この「良いこと」という言葉は、「美しいこと」と翻訳することもできる。主は彼女がしたことを美しいことと受け入れてくださった。主が女の愛を受けとめてくださった、そのこと自体が何よりも美しい。そして、この美しい出来事は「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」とおっしゃる。美しい、主の死への備え、埋葬の準備なのである、と。
ここに、もう一つの主の死への備えがある。この美しい物語を前後に挟むのは、イエスを殺そうとする策略、そして、イエスを裏切ろうとして金を受ける約束を取り付ける男たちの姿なのだ。明確な対比の下に、主の死への二つの備えが鮮やかに描き出されている。

3.
これら二つの物語には、主の死への備えということと、もう一つのつながり、対比がある。それは、どちらも「金」が話題になっている、ということだ。
女がイエスの頭にナルドの香油を注ぎかけたとき、「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。『なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。』」と言ったのである。300デナリオンと言えば、ごく普通の労働者の年収に相当する額である。確かに高価な品だ。それを売って貧しい人に施せば、確かに、効率的で筋が通った使い方だと言えるだろう。
しかし、そこに愛はあるのだろうか?そこに、美しさはあるのだろうか?
憤慨した人々が本当に貧しい人々のことを考えていたとは思えない。ヨハネによる福音書の並行記事を見ると、はっきりと、そうではなかったと書かれている。マルコもやはり同じように見ていたのではないか。主イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」もしもあなたたちが本当に貧しい人々を愛しているのなら、いつでも彼らはあなたたちと一緒にいるのだから、いつだって施すことができるだろうと言われるのである。厳しい指摘だ。
そして、その同じ日に、イスカリオテのユダは裏切りを企て、イエスを引き渡そうとして祭司長たちのところへ行ったのだ。まるで彼はナルドの香油の女を巡るイエスの対応に躓いたかのようだ。ユダは金のことで躓いた。そして、祭司長のところで、金をもらってイエスを引き渡してしまおうと決心したのである。
金の誘惑は、私たちにとってはあまりにも生々しい。生々しすぎて、語ることをためらうほどである。恐らく、誰もが知っている誘惑であろう。

4.
「人間の混乱と神の摂理」という言葉がある。人間の混乱と神の摂理によってこの世界の歴史は動いていく。人間の混乱、それは、例えば祭司長に象徴される、思惑や計算であろう。祭司長は、恐らく、特別な悪人ではなかったのではないか。自分たちの国が自分たちが思い描く仕方で安定し、発展していくことを願い、求めた、一介の宗教家、また政治家だったのではないだろうか。或いは、人間の混乱は、ユダにも象徴される。彼は金で躓いた。金の価値観がイエスとは異なった。もっと効率的に、経済的に、「貧しい人を助ける」という理想論まで持ちだしながら、自分のしていることを正当化してみせる。
しかし、この世界の歴史を支配しているのは、決して、人間の混乱ではない。人間の善意から、或いは悪意から出た思惑だけが、人間の汚いものやきれいなものだけが歴史を作っているのではない。そこには神の摂理が生きて働いている。神の御心が、この人間の罪の思惑の中で貫かれている。あの女はそれに「アーメン」と答えたのだ。だから、主イエスは言われる。「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう。」なぜなら、女が香油を注いだ、それは、主の埋葬のための準備であったから。人間の混乱がイエスを十字架につけた。しかし、神が、摂理の御業を持って貫いたのは、その十字架によって私たちを混乱と罪の中から救おうとする御業であったのだ。祭司長の罪、ユダの罪、この私の罪をも用いて、神は救いの御業を、今日も進めておられるのだ。

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