2015年4月2日木曜日

マルコによる福音書第14章12から31節

1.

受難週の木曜日を迎えた。今日はこの祈祷会で聖餐を祝う。受難週木曜日の聖餐は特別だ。そもそも、聖餐はこの日に制定された。いわゆる最後の晩餐と言われる、十字架にかけられる日のキリストと弟子たちとの食卓。過ぎ越しの食事。聖餐はこれを再現している。


 イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。


主イエスはパンを裂いて「これはわたしの体である」と言われた。杯を取って、「これは多くの人のために流すわたしの血」と言われた。私たちは聖餐に与るときに、主イエス・キリストのお体と血に与る。私たちがいただいているのは、畏れ多いことに、キリストの体なのだ。キリストの血なのだ。象徴ではない。そういう気持ちになるというのでもない。私たちはキリストが制定された聖餐に与るときにキリストご自身に与っている。これは、神秘と言わなければならない。神の秘技だ。

もちろん、パンや杯を眺めながら、これが一体どういうふうにイエスさまのお体に変化しているのかと考えてみても、仕方がない。大切なことは、「これはわたしの体」、「これはわたしの血」と主イエスがおっしゃった食卓を私たちが囲み、そこにキリストが現に共にいてくださって、私たちはこのお方の言葉に従って、お体と血潮に与っている、ということなのだ。

聖餐において、私たちは、キリストご自身を頂いているのである。


2.

主が聖餐を制定なさった22から26節は、12から21節と26から31節に挟まれている。これらは、どちらも、弟子の裏切りを告げる主イエスのお言葉なのである。イエスは既に裏切りを企てていたイスカリオテのユダについて、その事をはっきりと指摘なさった。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」それが誰なのかと言うことはあからさまには言われていない。ユダ自身には分かったはずである。主イエスは、彼の心に秘められた裏切りの心、即ちイエスなど必要ないという心をご存知であった。

27節以下でも同様である。「あなたがたは皆わたしにつまずく。」更にペトロについては、「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」とまで、具体的に言われた。ペトロは打ち消す。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」他の者も同じように考えていた。

しかし、彼らは、主が言われたとおりになってしまう。「あなたがたは皆わたしにつまずく。」


3.

決して忘れることができないのは、このような弟子たちの裏切りや躓きのただ中で、主イエス・キリストが聖餐を制定なさったと言うことだ。「取りなさい。これはわたしの体である。」引き裂かれたパンを差し出しながら、主イエスはそう言われる。あなたのために引き裂かれたわたしの体を取りなさい!

「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」皆が飲んだ杯をそのようにおっしゃった。多くの人のために、あなたのために、私は血を流す。その血を飲みなさい。その血によって命を得なさい。主はそのように言われるのだ。

私たちは、今、この食卓を囲む。これは、キリストご自身が定めてくださった食卓である。この食卓を囲むとき、私たちはキリストと出会う。実際にキリストのお体を肉感することができる。キリストがおられる場所、それは、聖人君子の集まりの中ではない。ご自分を捨て、躓く者たちの間にいてくださる。そして、その場所で、ご自分を私たちのために献げてくださっている。

聖餐のパンは、最初は丸い。しかし、皆がこれをちぎって食べると、どんどんボロボロになっていく。一周回って帰ってきたとき、パンは最初の見目麗しさをもはや保たない。キリストは、そのようにして私たちのために引き裂かれ、血を流されたのだ。この方こそ、ただお一人の神、ただお一人の救い主である。

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