2015年4月19日日曜日

ヨハネによる福音書4:13-15「もうかわかない水をあげます!」


主イエスがシカルというサマリアの町の井戸におられたときのことです。その井戸に一人の女が水を汲みに来ました。真昼の井戸での出会いです。この「井戸」という場所に、何かシンボリックな意味を感じずにはいられません。井戸は古来とても大切なものです。旧約聖書を見ても井戸を巡る仁義なき争いが記録されています。サマリアの女は、この井戸を掘ったのはヤコブだと言っていますが、そのヤコブの父親のイサクも井戸の問題でとても苦労しました。井戸を巡る争いが続いたために、イサクは「争い」とか「敵意」という名前を自分の井戸につけてしまうほどです。日本のように小川が多く、緑が豊かな土地柄ではありません。井戸は文字通りのライフライン、命綱です。井戸がなければ生活は成り立たない。私たちに水道が必要なのと同じです。そして、井戸での水汲みは当時は女の仕事でした。通常、女たちは朝早くや夕方の涼しい時間に井戸にやってきます。しかし、サマリアの女は正午頃にやって来ました。暑い時間です。普通は誰も水汲みになんて行きません。16節以降の主イエスとのやりとりを見ると、そうしたい理由があったようです。誰とも会いたくなかったようです。井戸は生活の象徴です。井戸端の人間関係は自分を取り囲む生活そのものです。厳しい競争を勝ち抜くために、敵意や争いを抱くこともあるし、人に会うのもイヤで、わざわざ人目を避けた時間に仕事をすることもあるかもしれません。でも、そうやって汲んだ水は、切ないことに、どんなに飲んでもまた渇いてしまいます。競争で勝ち取った成果、物欲を満たした収穫物、周りの人への強烈な承認欲求、どれも、飲んでもまたすぐに渇いてしまいます。サマリアの女はかつて5人の夫がいて、今は別の男と同棲していました。どんな気持ちで、自分を求めてくれる人にすがってきたのだろうかと思います。そして、裏切ったり、裏切られたりしたのではないかと思うのです。この昼間の井戸は、彼女の渇きの象徴であるかのようです。そこに、主イエスがおられるのです。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。」そんな水が本当にあるのでしょうか。彼女はイエスと出会って、話して、自分も神に祈れること、礼拝できることを知りました。真昼の井戸のような私も神に棄てられていないことを知りました。渇かない水を、彼女は飲んだのです。

2019年1月17日(創世記30)

今日の通読箇所:マタイによる福音書13:1-30、創世記30 、詩編21 創世記30; 人間の思惑がうごめいている章です。ヤコブの二人の妻、レアとラ ケル。彼女たちの召使いであるジルパとビルハも巻き込まれます。 この章の前半で、ヤコブには11人の男の子と一人の女の子が生ま...