2015年5月3日日曜日

ヨハネによる福音書8:1-11「わたしもあなたを罪に定めない」


主イエスが神殿で朝早くから教えておられたとき、ファリサイ派の人々が一人の女を連れて来ました。女は着の身着のままだったことでしょう。何しろ、姦通の現場で捕らえられ、ここまで連れてこられたのです。「こういう女は石で打ち殺せ」、そう律法に書いてあると彼らは言います。あんたはどう考えるのだ、イエスに詰め寄ります。イエスの教えを聞いていた民衆も石を手に、今にも彼女に投げつけようとしていたに違いない。怒り狂った。ふしだらな女だと。しかし、ただイエスお一人だけが違うことを言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」一人、また一人とそこから立ち去り、最後にはイエスと女だけになる。イエスは言われます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」皆が怒り狂って裁きました。しかし、イエスはそうではなかった。「わたしもあなたを罪に定めない。」これが、今日神が私たちに下さる福音の言葉です▼もしもわたしがこの教会の誰かと不倫をしたとしたら、おぞましいことですし、皆さんには想像するだけで気持ち悪いだろうと思います。彼女がしたのはそういうことです。倫理的にも道徳的にも社会的にも許されない罪ですし、生理的嫌悪感を覚える人が多いことです。そういう罪人を見つけて、お前は間違っていると皆で糾弾し、バッシングし、制裁を加えようとする。しかし、イエスはそうやって裁きの心に囚われた者たちの言葉に耳を傾けようとはなさいません。「イエスはかがみ込み、指で地面に何かを書き始められた。」明らかに、イエスは人々の裁きの言葉を聞くことを拒んでおられるのです。日頃から裁きの言葉に晒されている私たちです。テレビのコメンテーターや評論家の言葉も、電車につられている週刊誌の見出しも、ネットで話題になっていることも、殆どが人の噂や罪をあげつらう言葉です。隣国とも麗しい関係を結ぶことができていません。裁きの言葉が飛び交っています。そんな言葉にわたしの心も蝕まれているのだと思います。裁きの虜になった心は、殆ど病気にかかったようなものです。罪の病です。確かに姦通は恥ずべき罪です。しかし、主がもっと悲しまれるのは、一人の罪人をよってたかって非難し、自分は正しいと思い込んで裁きの快楽に酔いしれる者のことです。この私こそ、主に赦して頂かなくては生きていかれない罪人なのです。ファリサイ派とこの罪の女とどちらがより悪いかということではないのです。神の前に顔を上げられる者は、本当は一人もいないのです。しかし、主イエスが告げてくださいます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」やがて彼女は見たことでしょう、自分のために十字架にかけられたイエスを。罪の虜の私を救う方の姿を。

2024年4月27日の聖句

「私には罪がない」とか、「主の怒りは私から去った」とあなたは言う。「私は罪を犯していない」と言ったために、今、私はあなたに裁きをもたらす。(エレミヤ2:35) イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。(ルカ23:42) 十字架にかけられた一人の罪人が主イ...