今、神の御前に集まり礼拝を献げている私たちに、神はご自分の霊、聖霊を分け与えてくださいます。私たちは聖霊のお働きに与っているのです。「聖霊によらなければ誰も『イエスは主である』とは言えない」と聖書に書かれていますが、イエスを主と信じ、救い主と信じて神を礼拝する者に、また、自分の人生の意味や人間関係の痛み、死を迎える準備をしようと、或いは特別な理由がなく誰かに誘われたからということだけで今日ここに来ようとすることにおいても、既にそこには聖霊の働きがあったのです。弟子たちの群れに降った聖霊は「炎のような舌」であったと書かれています。この舌という単語は、4節の「ほかの国々の言葉」の言葉と同じ単語です。また11節の「わたしたちの言葉」の言葉も同様です。つまり、教会に降った聖霊の力は<言葉を与える>という仕方で働いたと言えます。14節からすぐにこの時の使徒ペトロの少し長い説教が始まります。聖書を引用して言います、「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」、と。今は終わりの時だと言うのです。終わりの時とは、私たちの息子や娘から言葉が失われる時です。若者が幻を見ることを止め、老人がもはや夢を見られない時です。言葉を喪失し、将来を描くことができない時代、それは今私たちが知っているこの時代の姿そのものではないでしょうか。先日、「声なき者の友の輪」の神田英輔先生のお話を聞きました。神田先生は日本社会の特徴を、丸山真男の言葉を引用して「たこつぼ社会」と表現されました。入ると居心地が良いが横のつながりがなく、内には優しいが外は排除する。その特徴は「長いものには巻かれろ」とか「出る杭は打たれる」などの諺に表される、同調を強いる空気にあると言われます。最近、社会学者の内田樹さんの本を読みましたが、現代日本は自滅衝動に駆られていないかと指摘しています。知らず知らずのうちに自ら好んで自滅の道に突き進んでいないか、と言います。恐ろしい指摘です。かつて預言者エレミヤは「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」と言いました。彼の時代から今日に至るまで、社会は病んでいます。しかし、エレミヤは更に続けて言います。「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。」聖霊を頂いた教会は言葉を与えられました。私たちをいやし、救ってくださる神の業を語る言葉、福音の言葉です。この言葉を私たちの同胞が必要としています。福音を語るために、私たちにも聖霊が与えられているのです。
2024年4月25日の聖句
救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...
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主イエス・キリストが、安息日になるといつものように会堂に入り、聖書を朗読なさいます。これだけでもう慰め深い言葉です。私たちは今主がそうなさったのと同じように、私たちの安息日である主の日、日曜日に教会堂に集まって礼拝を献げています。今日、ここに来られな...
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今日の通読箇所:ルカによる福音書7:24~50、ヨシュア記1 8、詩編124~125 ヨシュア記18; 「あなたがたの先祖の神、主が与えられた地に入り、所有するのを いつまでためらっているのか(3節)」。すでにイスラエルの五つ の部族には所有地が割り当てられましたが、 まだ...
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詩編29~30 主は洪水の上に座し 主は王として、とこしえに座した。 主がその民に力を与えてくださるように。 主がその民を祝福してくださるように 平安のうちに。(30:10~11) 川の水はかの平清盛にさえもどうにもならないと言わしめたと聞き及んだことがあります。私たち人間の...