2015年5月24日日曜日

使徒言行録第2章1から13節「あなたの神を呼び求めよ」


今、神の御前に集まり礼拝を献げている私たちに、神はご自分の霊、聖霊を分け与えてくださいます。私たちは聖霊のお働きに与っているのです。「聖霊によらなければ誰も『イエスは主である』とは言えない」と聖書に書かれていますが、イエスを主と信じ、救い主と信じて神を礼拝する者に、また、自分の人生の意味や人間関係の痛み、死を迎える準備をしようと、或いは特別な理由がなく誰かに誘われたからということだけで今日ここに来ようとすることにおいても、既にそこには聖霊の働きがあったのです。弟子たちの群れに降った聖霊は「炎のような舌」であったと書かれています。この舌という単語は、4節の「ほかの国々の言葉」の言葉と同じ単語です。また11節の「わたしたちの言葉」の言葉も同様です。つまり、教会に降った聖霊の力は<言葉を与える>という仕方で働いたと言えます。14節からすぐにこの時の使徒ペトロの少し長い説教が始まります。聖書を引用して言います、「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」、と。今は終わりの時だと言うのです。終わりの時とは、私たちの息子や娘から言葉が失われる時です。若者が幻を見ることを止め、老人がもはや夢を見られない時です。言葉を喪失し、将来を描くことができない時代、それは今私たちが知っているこの時代の姿そのものではないでしょうか。先日、「声なき者の友の輪」の神田英輔先生のお話を聞きました。神田先生は日本社会の特徴を、丸山真男の言葉を引用して「たこつぼ社会」と表現されました。入ると居心地が良いが横のつながりがなく、内には優しいが外は排除する。その特徴は「長いものには巻かれろ」とか「出る杭は打たれる」などの諺に表される、同調を強いる空気にあると言われます。最近、社会学者の内田樹さんの本を読みましたが、現代日本は自滅衝動に駆られていないかと指摘しています。知らず知らずのうちに自ら好んで自滅の道に突き進んでいないか、と言います。恐ろしい指摘です。かつて預言者エレミヤは「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」と言いました。彼の時代から今日に至るまで、社会は病んでいます。しかし、エレミヤは更に続けて言います。「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。」聖霊を頂いた教会は言葉を与えられました。私たちをいやし、救ってくださる神の業を語る言葉、福音の言葉です。この言葉を私たちの同胞が必要としています。福音を語るために、私たちにも聖霊が与えられているのです。

2024年3月19日の聖句

逃れ場は、いにしえからおられる神のもとにある。(申命記33:27) 心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。(ヨハネ14:1~2) 主イエス・キリストが私たちのための住まいを父の家に準備してくださっています。「逃れ場は、いにしえか...