2016年3月22日火曜日

ヨハネによる福音書14:1-14

1.
「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。」使徒トマスの言葉である。主は言われたのだ。「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じ子とを言っておく。(13:33)」と主が言われたから、不安になったのだ。そして、これは私たちの不安でもある。私たちの恐れでもある。主よ、どこに行かれるのですか?主よ、どこにおられるのですか?主よ、今何をしておられるのですか?トマスと同じように問いたくなることはいくらでもある。あの震災の時に、テロが起こるときに、同胞が拉致されたときに、戦争が終わらないときに、難民があふれかえっているときに、私たちも問わないわけにはいかない。家族の病気の時に、自分自身の肉体の痛みのために、仕事が行き詰まったときに、人と関わることに疲れ果てたときに、私たちも問わないわけにはいかない。主よ、どこにおられるのですか?わたしが行くことのできないどこへ行ってしまわれるのですか?
これは、イエスの言葉を聞いての質問である。「 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」そう言われても、トマスは納得しなかった。「分かりました、信じます。」とは言えなかった。もしかしたら、そう言われても、トマスには絵空事のように聞こえたのかもしれない。父なる神様の所には、私たちが住むための場所がある。主イエスがそのための場所を準備してくださる。そう言われても、明日からわたしは一体どうやって生きていけば良いのですか?今日のわたしの生活はどうなるのですか?具体的に言ったら、イエス様、一体どういうことなのですか?トマスが問いたかったのは、そういうことなのかもしれないともフト思う。
使徒フィリポも同じように主に問う。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」イエス様、結局、どういうことなのですか?父なる神様は一体何を考えておられるのですか?私たちは一体どうやって父なる神様の御心を知れば良いのですか?

2.
主イエスは何とお答えになったのであろうか。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」
主イエスは言われるのだ。わたしを見ていれば、父なる神さまが今一体何をしておられるのか、よく分かるだろう、と。私たちには、神さまのお心が分からなくなってしまうことがあるのだ。今、水曜日の祈祷会ではヨブ記を読み始めている。ヨブもそうだったのであろう。主の御心が見えない。あんなにわたしに祝福を下さった方が、どうして今このような仕打ちをなさるのか。サッパリ分からない。どうしても納得がいかない。主よ、なぜですかと問わざるを得ない。そういうことが私たちには起こる。一体、どうしたら神さまの御心が分かるのか。主イエス様はおっしゃる。わたしを見れば良い。わたしを見ていれば、父の御心は分かる。
「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」
業そのものによって。主が行う業。それは、十字架を受け入れ、そこに向かって行かれる業ではないだろうか。私たちはよく知っているのだ。神の御心を。神の御思いを。神が何を願っておられるのかを。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」そういうご自分の業を見て、そこに父の御心がはっきりと示されていることを信じよと主は言われるのである。

3.
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」十字架にかけられたキリストを抜きにして、父なる神の御心を知ることはできない。主はそうおっしゃったのではないだろうか。このお方が、更に言われる。「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」だから、私たちは祈りの最後に「主イエス・キリストのお名前で祈ります」と言うのだ。主イエス様のお名前で祈ることを主が御自ら教えてくださったのである。「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。」

十字架のキリストのお姿に父の御心を知った者は、祈りが変えられる。家内安全。商売繁盛。祈りは色々ある。そうなったらどんなに良いことか。神さま、今何をしておられるのですか?今どこにおられるのですか?そう問わざるを得ない現実が全て消えてしまったとしたら、どんなにすばらしい事であろうか。そのことを願うのは、自分勝手な願いなのか?いや、そのようなことはないだろう。しかし、「主よ、どこに?」と問わないわけにはいかない出来事は、私たちの目の前から消えてしまうことがない。それは、残念であるが、本当のことだ。神を信じれば何でも順風満帆、上手くいきますとは、わたしは残念だが約束することができない。しかし、主は、何でも願えと言ってくださった。しかも、わたしの名によって願えと言ってくださった。主イエス・キリストのお名前で私たちは祈る。祈る時に、知るのだ。イエス様が示してくださった、父の御心を。わたしが滅びるのではなく、永遠の命を生きることをご自分の喜びとしてくださった方の御心を。だから、わたしが約束できることは、家内安全でも商売繁盛でもなく、どんな困難の中でも、どんな辛い現実の中でも、神はあなたを愛することを喜びとしておられることだし、神はあなたが永遠の命に生きることを喜びとしてくださることだ。その事だけは、責任を持って、お約束することができる。主イエス・キリストの御名で! 

2020年1月26日(マタイによる福音書21:1~22)

マタイによる福音書21:1~22; エルサレムに入城した主イエスに、人々は「ダビデの子にホサナ」と叫び、喜んでお迎えしました。、まず、群衆です。「大勢の群衆が自分の上着を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホ...