2016年7月31日日曜日

マタイによる福音書6:33-34「運命と諦めるのか、しなやかな信仰に生きるのか?」

「明日のことまで思い悩むな」と聖書は語りかけます。思い悩むというのは、思い煩うということです。悩みのうちに思いが病気になるほどのことです。なぜ、思い煩わなくて良いのか?明日のことを考えれば、確かに不安の材料はいくらでもあります。そのために夜眠れないこともあるでしょう。しかし、聖書は、聖書を通してキリストはおっしゃいます。思い煩うな、なぜなら、神があなたたちのことを心配してくださっているから。だから大丈夫。そのことを信じていただきたい。今読んでいる本に川上直哉という牧師の文章が載っていました。仙台の教会の牧師であったときに大震災に遭いました。被災者支援の活動の中心的な存在でいらした方です。こんなことをおっしゃっています。「変な話ですが、震災後に私は説教すること、あるいは、礼拝をすることが楽しくて仕方ありません。特に放射能のことが見えてくればくるほど、この世界をそれでも神様は愛しているんだということを語り、大きな声で『大丈夫!』とはっきり言っていいということが大きな力を帯びています。権威を持って講壇の上から聖書はそう言っていますからねと言えることに、ほんとうに自分は助けられています。」その通りだと思います。聖書が「大丈夫」と言っているという事実には力があります。何しろ、神さまの約束なのですから。私たちの仕事は、「家庭」に注目すると三つに分けて考えることができると思います。現在の生活を支える家事。社会での仕事はここに含まれます。次世代を育てる育児。そして、先輩の世代を看取る介護。これらはどれも大変で、目の前のことだけで気持ちが一杯になり、次第に思い煩ってしまう・・・というのが私たちの実際のところではないでしょうか。先日、友人の牧師に私の悩みを聞いてもらいました。話してみて気づいたことは、まさにそれは思い煩いだったということです。彼がしてくれたことは、わたしの目を上に向けさせることだけだったのだと思います。つまり、神を見上げさせてくれたのです。確かに、私たちには取り組むべき課題があり、それは簡単でないことが多い。悩みがない人なんていません。しかし、神への信頼が失われると、それが思い煩いになります。信頼が失われて、心が固くなるのです。教会はそのことを「運命と摂理信仰」と言い表してきました。起こったできごと−大抵は困った出来事です−を運命だとか宿命だとか考えて、心の持ちようを変えようとしたり、もっと窮すると占いや運勢判断を頼ってみたりする。そこから生まれるのは諦めです。運命信仰は不安を呼び起こして、諦めに包まれます。しかし、摂理の信仰はそれとはぜんぜん違います。愛に満ちた神のご配慮を信じる信仰です。摂理の信仰は運命信仰と根本的に異なります。摂理信仰は、神がわたしの目から見て善いとお思うことだけを与えてくださると信じることではありません。むしろ、さいわいと共に不幸と思う体験をお与えになる。呻きつつ、その意味を神に問うて、理解しがたいことも起こります。しかし、そこで希望を捨てることがありません。諦めないのです。摂理の信仰に生きる者は、何よりも祈ります。神に訴えます。理解できない出来事を前にして、神を見上げるのです。大人も子どもも、誰しもいろいろなものを抱えて生きています。だからこそ、神を信頼して、望みを持とうではありませんか。神があなたのことを心配し、気にかけておられるのですから(Ⅰペトロ5:7)。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...