2016年10月2日日曜日

コリントの信徒への手紙一第11章23から29節「渡したいものがあります」

今日は「世界聖餐日」という日曜日です。世界中の教会が覚えています。これは1946年に大戦の深い傷跡の後で世界中の教会が聖餐を通してキリストにあって一致しようと定められました。今日聖餐を祝うとき、私たちは一体何をするのでしょうか。私には思い出深い聖餐があります。去年の6月にコロンビアで祝った聖餐です。カンバーランド長老教会の総会でのことで、私も配餐のお手伝いをしました。コロンビアと言えば、先月52年間続いた内戦について、政府とゲリラ軍が和平文書に調印したばかりです。この合意を認めるかどうかの国民投票がまさに今日あると聞いています。12時間もすればコロンビアの教会は神を礼拝し、そして、その後それぞれに投票に向かうことでしょう。この内戦では20万人以上が殺害されたそうです。2000年間、聖餐はこのように痛む世界の中で祝われ続けてきました。聖餐は主イエスが十字架にかけられる前の晩に弟子たちと一緒に召し上がった食事に由来します。その席で主がパンをとって切り裂き、おっしゃった。「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」記念というのは思い起こすという意味の言葉です。私たちは聖餐を祝う度に思い起こします。キリストの肉が十字架の上で裂かれたことを。血が流されたことを。キリストがかけられている十字架が、私たちの生きるこの大地に、この痛み、呻き、苦しむ大地に立てられているのです。キリストは徹底して私たちと共にいてくださいます。誰よりも低い場所、十字架にまでへりくだってくださいました。なぜ、キリストは十字架にかけられたのか。聖餐は最後の晩餐の記念ですが、その夜のことは「引き渡される夜」と書かれています。この「引き渡す」という動詞は例えばマタイ第26章に集中しています。「人の子は、十字架につけられるために引き渡される(2)。」ユダは「あの男を引き渡せば、幾らくれますか(15)」と言いました。銀貨30枚の約束をします。また、4748節でユダが「イエスを裏切ろうとしていた」と言われている「裏切る」も同じ動詞です。12弟子の一人であるユダがイエスを裏切り、それが決定的な契機になってイエスは十字架にかけられました。たったの銀貨30枚のために。しかし、改めて考えると、世の中何でもお金に換算されます。人間関係に損得を計算するのも同じでしょう。人のことで時間の無駄が気になってしまうのも、同じだと思います。そもそも、裏切ったのはユダ一人ではありません。一番弟子のペトロを初めとして全員がイエスを見捨てました。私はずっとペトロが他人とは思えませんでした。ペトロがイエスを裏切った話は私のことだと思います。イエスを十字架にかけえたのはユダであり、ペトロであり、私であり、あなたです。キリストを十字架にかけたのは私たちの罪です。キリストの十字架は私たちの罪が痛めつけるこの世界の大地に立っているのです。しかし、思いがけないことが起こります。十字架にかかったイエスが甦り、弟子たちと出会った後に、彼らは福音を伝える者になりました。「わたしがあなたがたに伝えたのは(Iコリ11:23)」の「伝える」は件の「引き渡す、裏切る」と同じ動詞です。キリストを引き渡した人間が、福音を伝え、聖餐のパンを手渡す者になりました。それは、神御自身が御子イエスを惜しまずに死に渡そうと決意なさったからです。神は私たちをこの世界の中で必ず救ってくださいます。

2024年4月19日の聖句

ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。(創世記6:22) (イエスの言葉)「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ7:24) 風水害や地震などの自然災害の多い場所に住んでいると、今日の主イエスの言葉はよく分かります。「岩の...