2017年1月22日日曜日

ローマの信徒への手紙8:26〜28「どんな時でも、神は道を備えておられる」

私たちは礼拝をしています。改めて言う必要もないことかもしれません。しかし、礼拝とはなんなのか。それを問われることもありますし、いったん考えますと難しいことにも気が付きます。礼拝について書かれている本も何冊もありますから、ここには一言などでは言い表せないほど豊かな恵みがあるということです。豊かな礼拝に招かれている私たちは今、その礼拝の一部である「祈り」ということに注目してみたいと思います。
 本日のパウロの言葉。「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」と言う言葉は、すこし不思議です。祈りを大切にし、誰よりも祈っていたことと思います。しかし、パウロはどう祈るべきかを知らないと言うのです。パウロは、私たちがすべき祈りはいかなるものなのか、それを問うているように思います。
 主イエスは、奥まった場所で祈りなさい、とも教えられたことがあります(マタイ6章)。誰にも聞かれないような場所でも、父なる神は私たちの祈りを待っておられる。祈りとは、神秘だと思います。祈りが深まるというのは、言葉の巧みさでもなければ、回数でもない。信頼が増すかどうかに関わってくる。それは聖霊の働きにとてもよく似ています。
 私たちが神を「父よ」「お父ちゃん」と呼ぶことができること、それは聖霊の働きによるものです。神の子どもとされることを、私たちは願っております。それは目には見えない希望です。この目には見えない希望を聖霊ご自身が、私たちよりも先に願っておられます。「執り成す」とパウロは言いましたが、この言葉のイメージはくっついて動かすイメージです。私は子どもが服を引っ張って「あっち」「あっち」と願うようなイメージをします。聖霊は私たちの内に働いて、神のご計画を願います。ですから、聖霊が私たちの内で祈りを始めるということは、私たちが求めていることよりも先に、神がどのような計画を持っているかに関わってくるのです。

 ここで改めて振り返りますと、私たちは自分の生活の保持のために心を多く使ってしまうことがあります。疲れます。不安に苛まれます。ですが、私たちが礼拝に招かれているということ、神を父と呼び祈りをするということ。それは、確かに私たちの願ったことではありますが、生活の安定のためではなかったことが分かります。言い換えるならば、この方にご計画があり、そのご計画がなされるために、私たちが招かれ命が守られているのであります。ですから、私たちの祈りは、「わたしを守ってください」と祈りつつ、同時に「あなたは何をなさるのでしょうか?」「あなたのご計画のために、私は何の役目を与えられているのでしょうか?」と尋ねることとなるのです。このお方のご計画に従って歩む歩みが与えられている私たちは何と幸いな者なのでしょうか。皆さまの今週の歩みが、聖霊の執り成しのもと、父なる神の業を見せていただく歩みとなりますように。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...