2017年7月16日日曜日

ローマの信徒への手紙10:5〜13「神を信じる者は失望しない」

「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」という言葉があります。この「区別」という言葉を他の翻訳では「差別」と訳していました。ユダヤ人、ギリシア人だけではありません。私たちはあの人はふさわしい、あの人はダメといろいろな差別をします。あの人はユダヤ人、ギリシア人、この人は日本人、米国人、中国人、台湾人・・・と選別します。今から2年ほど前、コロンビアで開催されたカンバーランド長老教会の総会に出席したときのことです。当時も今も、米国社会の大きな問題は不法移民問題です。そのことが議場で取り上げられていました。彼らを教会は受け入れるべきなのか、と。若者も含めて、議場では白熱したやりとりが交わされていました。最終的に、「不法」移民という行政の言葉によって分類するのは止めよう、私たちは誰であっても受け入れようということになりました。米国社会にあってキリスト者として生きる彼らの判断を誇らしく思いました。神の前で私たちは一体何者なのかと問うたとき、あらゆる区別や差別は相対的なものに過ぎなくなります。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。これが福音です。区別がないから私たちも救われたのです。米国では昨年の選挙で移民にあまり寛容ではない主張をした人が大統領に選ばれました。今、私たちの米国にいる姉妹教会はどう考えているのでしょうか。きっと同じ確信に生き、隣人に福音を宣べ伝えていることでしょう。福音に生きる者はときに社会の価値観と違うことを語り出します。「主を信じる者は、誰も失望することがない」と書いてあります。この「失望」という言葉は、他の翻訳を見ると「辱めを受ける」となっています。主イエスを信じて恥をかくことはない、と言うのです。なぜ?主イエスは私たちを裏切ることが決してないからです。そうは言っても、日々の思い煩いがあるし、祈っても聞かれないことがあります。福音が生む摩擦もあるのです。そういうことを神さまは気にも留めず、自分のことなんて忘れてしまっているのではないか?「『心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない。』これは、キリストを引き下ろすことに他なりません。また、『「だれが底なしの淵に下るか」と言ってもならない。』これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。」聖書はそう言います。自分みたいな人間のことを神は覚えていないとか、誰も自分の重いこころは分かってくれないとか、私たちは考えてしまう。しかし、主イエスはそんな私のために天にも上り、陰府にも降ってくださいました。キリストは私たちを裏切らず、私たちのことを恥ずかしいと思われず、私たちを御自分の兄弟だと公言してくださいます。そこには、何の差別も区別もないのです。何人であっても、病気の人も健康な人も、障がい者も健常者も、どんな人のことも私たちがこころから差別せずに共にキリストの下さる救いのメッセージを共に喜べるなら、それは神の真珠のような宝です。真珠は貝に小さな核が入り込むことで生まれます。私たちの真珠を作る「核」は「イエスは主である」という告白です。これは私たちが生み出した告白ではなく、新約の時代から教会が受け継いできた共同の告白です。この告白が教会をつくる。私たちもその一員です。共に主を呼び求めましょう。イエスの復活を告げる福音を共に喜びましょう。   

詩編第126編「思いもしない偉大な業」

この詩編はバビロン捕囚からの解放を背景としているのだろう。圧倒的な異国の力に押しつぶされ、解放など考えられもしなかった。しかし「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった。」神の御業は我らの思いを遙かに超...