2018年11月11日日曜日

マタイによる福音書20:1〜16「さあ、パーティがはじまるよ!」


 主イエスが話してくださった譬え話です。まことに主イエスらしい話だと思います。皆さんは、この話、お好きでしょうか?それとも嫌いでしょうか?とても理不尽で不公平な話だという感想も多いのではないかと思います。
 あるぶどう園で働いた労働者たち。夜明けから働いた人、その後も何もせずに広場に立っていて9時から雇われた人、12時からの人、3時からの人、そして5時まで何もせずに広場にいて雇われ、一時間しか働かなかった人。主人は5時からの人から初めて、全員に同じ給料を支払いました。ところが夜明けから働いた人がこれに怒ります。自分たちは夜明けから、熱い中一日中苦労して働いたのに、同じ給料だなんて…と。主人は答えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。」主人はもともと一デナリオンの約束をしていた。それを彼らにも支払ってやりたいのだ、と言います。「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」そう問うてこの譬えは終わります。
 不公平な話のようにも感じさせます。自分が一日苦労して働いて、ヘロヘロになっているところに、自分よりも全然働いていない者が疲れたような顔をし、そればかりかその人にも神さまからの報いは変わらないなんて聖書は言う。自分の苦労なんて、神さまは見ておられないのかと思ってしまいます。ここに書いてあることは、明らかに私たちの社会の常識とは違います。奇妙な話ではないでしょうか。
 これは天の国の譬えです。神の国はこのようなもの、私たちの尺度でははかれないと主イエスはおっしゃるのです。この主人は、気前のよい人物です。もちろん、神さまのことです。神さまは気前がよい。夜明けから働ける能力のある人も、夕方まで誰にも雇ってもらえなかった人にも、同じように今日生きる命を下さいます。私たちの妬みを引き起こすほど気前がよい。
 この譬え話の前に出てくるのは、子どもたちです。イエスのところに子どもを連れて来た人たちを弟子たちは叱りましたが、主イエスは喜んで祝福なさいました。それに続けて、金持ちの青年が登場します。彼は旧約聖書の律法を子どもの頃から守ってきました。しかし、結局、主イエスのもとを悲しみながら立ち去ることになりました。彼が持っていたお金や彼のこれまでの立派な生き方は、彼を救いませんでした。それでは、一体誰が救われるのか?「それは人間にはできることではないが、神にはできる」と主イエスは言われます。その主イエスは、子どもたちを祝福しながら、「天の国はこのような者たちのものである」と言われたのです。天の国は、私たちの立派な生き方や努力で獲得するのではなく、何もできない者に、誰にも見向きもされずに5時になってやっと憐れみで雇われたにすぎない者にも、神が恵みとして下さる一方的なプレゼントなのです。
 神さまは、気前のよい方です。周囲に妬みを引き起こすほどに。だから、私でも救われたのです。神さまは、何時から働いたにせよ、今日を生きるための賃金(恵み)を下さいます。労働者はそれをもって家に帰り、晩餐をたのしむのでしょう。私たちも、天の国の宴に招かれています。子どもたちは、そんな神さまの恵み深さを証しする生きた証人なのです。

2024年4月20日の聖句

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