2019年6月2日日曜日

2019年6月2日(サムエル記上30〜31)

今日の通読箇所:使徒言行録2:1~24、サムエル記上30~31、ヨブ記13

サムエル記上30~31;
ダビデと部下たちはツィクラグに戻ります。ここはペリシテに寄留したときにダビデに与えられた町です。ダビデの家族もそこに滞在していました。ところがダビデたちが不在の間にこの町はアマレク人に襲われ、ダビデ自身の妻も連れ去られてしまっていました。町の人々の怒りは、ダビデに向かいます。「ダビデは非常な苦境に立たされた。というのも人々は皆、自分の息子、娘のことで苦しみ、ダビデを石で打ち殺そうとまで言い出したからである(30:6)」。ダビデ自身も家族を連れ去れていますが、しかしやはりそこは責任者ですから、皆の怒りの矛先が向くことは免れえないのかもしれない。それでも、苦しい立場です。
しかし、ダビデはこのときにも揺るぎません。「だがダビデはその神、主を信頼して揺るがなかった(6節)」。どんなときにも神を信頼し、神に祈って道を定め、神の御心を尋ねもとめて生きていました。
やがてダビデたちはアマレク人たちに追いつき、奪われた人々や物品を取り戻します。ところがダビデに反目してこの戦いに参加しなかった者たちがツィクラグの町にいました。参戦した者たちは主張します。「あの者たちは一緒に行かなかったのだから、我々が取り戻した戦利品を与える必要はない(22節)」。しかし、ダビデは言います。「兄弟たちよ、主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。我々を守ってくださったのは主であり、あの襲ってきた一団を我々の手に渡されたのは主なのだ(24節)」。ダビデは、いつも神様がしてくださっていることに注目していたからこそ、このように言うことができたのではないでしょうか。
第31章では、ついにサウルが最期を迎えます。ペリシテ人に捕らえられて屈辱を受けるよりも、彼は自害を選びました。しかしその死体は結局はペリシテ人に発見され、その首はさらし者にされました。戦争に敗れた王ということを考えても、あまりにも悲しく辛い最期です。サウルという存在は、私たちに、神の評価と人の評価が悲劇的に食い違うこと、その厳しい現実を私たちに突きつける、聖書が語る生きた証人の一人に違いないのです。「人は目に映るところを見るが、私は心を見る(16:7)」。

2024年5月17日の聖句

あなたは寄留者を抑圧してはならない。あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである。(出エジプト記23:9) 正しい人たちが王に尋ねた。「主よ、いつ、見知らぬ方にお宿をお貸ししたでしょうか。」王は答えた。「よく言っておく。この最も小さな...