2019年8月28日水曜日

2019年8月28日(エステル記4〜5)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙二10、エステル記4~5

エステル記4~5;
ユダヤ人を殲滅するための勅書が出され、モルデカイも、すべてのユダヤ人たちも、刈らぬのをまとって悲しみ、灰の中に座り、断食し涙を流して祈りました。王宮の中にいたエステルだけは、そのことを知りません。モルデカイはエステルから送られてきた使いである宦官に、事の次第を言付け、次のように言いました。
「(モルデカイは)ユダヤ人を滅ぼし尽くすためにスサで発布された法の書面の写しを彼に渡した。これをエステルに見せて事情を説明し、彼女に、王のもとに行って王の前で自分の民のために憐れみを請い求めるように命じるためであった(4:8,9)」。しかしこれはエステルにとっても大変なことです。例え王妃であったとしても、ペルシアでは王から呼ばれるのではなく勝手に王の前に出ることは禁じられていました。王宮の内庭にいる王のもとへ近づいたとき、もしも王が金の笏を差し伸べてくれれば事なきを得ますが、そうでなければ死刑になってしまいます。エステルは、この30日間、王の召しを受けていませんでした。エステルにとっても文字通りに「命懸け」なのです。
それを聞いたモルデカイはエステルに言います。「あなたは、その他のユダヤ人とは異なり、王宮いる自分は難を免れるだろうと思ってはならない。もし、この時にあなたが黙っているならば、ユダヤ人への解法と救済が他の所から起こり、あなたとあなたの父の家は滅びるであろう。このような時のためにこそ、あなたは王妃の位に達したのではないか(13~14節)」。エステルはこの言葉によって決心し、王の前に進み出ていきました。
このモルデカイの言葉は、私たちにも、それぞれに迫ってくる言葉ではないでしょうか。私たちにも、命をかけるべき「このような時」があるのではないでしょうか。
エステル記には、神や主という言葉が出てきません。他の聖書の文書と読み比べると、これは大きな差です。神がなさったことは、あからさまには一言も書かれていません。神様はこの世界ではあたかも隠れておられるかのようです。神様のお働きは私たちの目にはっきりとは見えません。ですから、エステルの行為には何の保証もない。勇気を持って飛び込んで、結局は失敗して命を落とすかもしれない。それでも、神と人とのために自分のすべてをかけるべき「時」がある。そのために信仰のすべてを献げるべき「時」が必ずあるのです。

2024年4月16日の聖句

私の神である主は、私の闇を光となしてくださる。(詩編18:29) これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。(ルカ1:78~79) 主なる神さまの憐れみの心によって。これが...