2019年9月22日日曜日

コリントの信徒への手紙一第15章42から49節「神は体をも救ってくださる」


 先日、何を思ったのか突然息子が「魂ってナニ?」と尋ねてきました。子どもに答えるのは難しいなと思いながら何かを言ったのですが、あまりよく答えられませんでした。しかしよく考えてみると、相手が子どもだから難しいというよりも、自分の理解が曖昧だったのだと思います。今朝の聖書の御言葉で、44節に「自然の命の体」という言葉があります。直訳すれば「魂の体」と翻訳することもできる単語が使われています。聖書に登場する「魂」という単語には、もともと、喉とか息といった意味があります。この場合の喉は、恐らく乾いてカサカサになった喉です。息は消えゆく儚さを感じさせます。聖書の言葉で「魂」と言ったとき、それは脆くて儚い、弱い人間存在という意味であるのだと思います。私たち人間は、弱い存在です。肉体を持つ限り、必ず老いるし、死は確実に近づいて来ます。それなのに、それでもなお生きる意味は一体どこにあるのでしょうか。
 詩編第103編には深い人間理解があると思います。特に1416節。「主は私たちをどのように造るべきか知っておられた。私たちが塵にすぎないことを御心に留めておられる。人の生涯は草のよう。…。」ここには人間がいかに弱くて脆い者として造られたのかが書かれています。それならば、私を造ったという神に向かって、「そんなものになら造るな」と言いたくなるほどのことではないでしょうか。しかし、この詩編の最初と最後には同じ言葉が登場する。「わたしの魂よ、主をたたえよ。」やはり、ここでも「魂」です。カサカサになった喉のように傷つきやすく、今にも壊れてしまいそうな、弱い私。その私が、しかし主なる神さまをたたえている。それは、810節などを見ると、神さまが憐れみ深く、恵みに富み、慈しみを示してくださるからだと言います。神は弱い私たちを、その弱さのために憎んだり、呪ったり、罰したりするのではない。憐れみ、恵み、慈しんでおられる。死ぬべきわたしを、救ってくださる。だから、神を信じて生きるというのは、希望のあることです。
 ティーリケという牧師が、今から450年程前に、アメリカ社会について、死を覆い隠してしまっている、と批判している文章を読みました。死も老化も見ないようにしていることに、今の社会の問題があるというのです。現代の日本社会も、同じ問題を抱えていると思います。病院から、死が見事に隠されています。老化には積極的意味がなく、アンチエイジングが正義になっています。私が洗礼を受けたのは高校生の時でしたが、その時に指導してくださった生島牧師は、私は神を信じて死ぬのが怖くなくなったとおっしゃっていました。高校生の私には衝撃的な言葉で、今でもよく覚えています。御自分の死をごまかすのではなく、じっと見つめながら、死を超える希望を信じているのです。「最後のアダムは命を与える霊となった」と書いてあります。この最後のアダムというのは、キリストのことです。キリストが十字架にかけられて殺され、その三日後に復活したことを意味する言葉です。キリストの復活が、弱い魂である私たちに命を与えてくださった。この事実が、神を信じる者の希望の源泉です。キリストは死者の中から復活した。私たちはこの命の似姿になる。
 私たちは弱くて脆い、限りある肉体をもって生きています。この体が種のように蒔かれ、やがて輝かしい体となって復活する。聖書はそう約束します。この約束があなたに向けられているのです。

2024年4月20日の聖句

私は必ずあなたを助け出す。剣に倒れることはない。あなたの命はあなたの戦利品となる。あなたが私を信頼したからであるーー主の仰せ。(エレミヤ39:18) イエスはその犯罪人に、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:43) 主イエスが十字架の上で...