2019年9月1日日曜日

コリントの信徒への手紙一第15章29から34節「正気で生きる」


 今日与えられた聖書の言葉でとても気になるのは、冒頭の29節です。「死者のために洗礼を受ける人たち」と書いてありますが、どういう意味なのでしょうか?私は最初、この「死者」というのはキリストのことだと思いました。十字架にかかって死んだキリストのために洗礼を受ける。しかし、ギリシア語の聖書を見てみると、この「死者」は複数形でした。死者たちのために洗礼を受ける。どう考えてもキリストではありません。恐らく、キリストへの信仰を告白し、洗礼を受けずに死んだ者たちのために洗礼を受ける、という意味です。すでに、教会から完全に消えた習慣です。しかし、気持ちは分かります。私たちも気になるからです。自分は洗礼を受けたからいいけれど、そういうこともなく死んでいった両親や友人はどうなるのか、彼らを救う手だてはないのか、と。そのための洗礼という制度が、この頃の教会にはあったようです。パウロは言うのです。そういう洗礼は、死者の復活を否定してしまったら、何の意味もなくなってしまうだろう、と。話は復活信仰です。その話が続いているのです。復活を否定しては、私たちの望みはむなしいではないか、と訴えています。
 熟練した整体師は、体の不調の原因がどこにあるのか、その急所を適切に見極めます。パウロは熟練した牧師として、コリント教会に起きているいろいろな混乱の急所を見極めます。コリント教会には今でも売春宿に通う男がいたり、教会の外での貧富の格差がそのまま持ち込まれたり、たくさんの混乱がありました。教会が傷んでいました。いろいろなことが起きてしまっているけれど、それらに共通する問題の急所はどこにあるのか?そこでパウロは、死者の復活を信じていないことだ、と指摘しているのです。
 「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか。」確かに、これはとても刹那的な言い分であろうと思います。今したいことしか見えていません。パウロは「正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない」と呼びかけています。「正気」という日本語は、正常な感覚を持っているということです。しかし何が正常か、何が正義なのかは、決めるのが難しいことです。社会の価値観や多数の意見、何となくの社会の空気によって簡単に変わってしまいます。ヘイトクライムが正義のような顔をすることだって間々あります。私たちはしばしば、正気のつもりでいながら、罪に捕らわれているのかもしれません。そうすると、どうやって生きることが刹那的ではなく、正気に、身を正した生き方だと言えるのか?
 「食べたり飲んだりしようではないか。…。」これはもともとイザヤ書22:13の言葉です。12節には神さまから、悔い改めへの招きがあります。しかし人びとはそれを無視して、「食べたり飲んだりしよう」と言ってのけた。神の前で生きることを拒んだ。それは、死者の復活を否定することと同じだ、とパウロは言う。良い習慣を台無しにする人間の「悪さ」というのは、神を拒む悪さです。復活の信仰は、この体も魂も、死を超えて神の前にあるという信仰です。これが今の私たちの生き方を定めるのです。だから、パウロは野獣のような迫害を受けても伝道をし続けました。それが可能だったのは、事実キリストがお甦りになったから。理由はそれだけです。この事実が私たちを自由にします。

2024年5月16日の聖句

主は高殿から山々を潤す方。主の業の実りで地は満ち足りる。(詩編104:13) 人々が十分食べたとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい」と言われた。集めると、人々が大麦のパン五つを食べて、なお余ったパン切れで、十二の籠がいっぱいになった。...