2019年11月15日金曜日

2019年11月15日(エゼキエル書31〜32)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書18:1~27、エゼキエル書31~32

エゼキエル書31~32;
エジプトに対するエゼキエルの預言の続きです。
「あなたの偉大さは、誰に比べられようか。まさに、あなたは糸杉、レバノンの杉だ。枝は美しく、森に木陰を造り、背は高く、その梢は雲の中にあった」(31:2~3)。エジプトは、美しい木のように立派だ、と言います。その結果、何が起こったのか「この木は背が高くなり、梢を雲の中に伸ばし、高さゆえに心が高慢になったので・・・」(10節)。この木はその美しさのために心が高慢になってしまった、と言います。
しかし、その美しい梢は、本当はそのようなものではありませんでした。「こうして、その丈はすべての野の木よりも高くなり、送られた豊かな水によって、小枝は茂り、大枝は長く伸びた。小枝にはあらゆる空の鳥が巣を作り、大枝の下ではあらゆる野の獣が子を産み、木陰には多くの国民が皆住み着いた」(5~6節)。この豊かな枝は、本来は自らを満足させて自己愛の虜になり、心を高ぶらせるためのものではありませんでした。その枝の豊かさのゆえに鳥が巣を作り、野の獣が子を産み、異国人も木陰で休めるための場所になるはずでした。他者のための存在、他者を生かすための存在になれるはずだった。それなのに、いつの間にかその豊かさで自分のことしか養わなくなってしまった。それが、ここでの批判の要点であると思います。
主イエスは、「受けるよりも与える方が幸いである」と言われました。至言であると思います。しかし、いつの間にか、私たちにとってとても難しい言葉になってしまっています。もう一度、与える幸いに私たちの心を向けさせてください、と今日祈りたく願います。受ける方が幸いだという思い込みから、どうぞ私を自由にしてください。そう祈ります。そうしたら、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」という祈りの「我ら」が、私や私の周りの人のことだけではなく、私たちがまだ出会ったことのない人、あるいは私たちの敵、無関心でもいられてしまう人、そのような人々をも含む「我ら」であることに気づかされる。そう思うと、日ごとの糧を求める祈りは、日ごとの罪の赦しを求める祈りと一つなのだと気づかされます。

2024年5月4日の聖句

あなたがたは豊かに食べて満ち足り、あなたがたの神、主の名をほめたたえる。(ヨエル2:26) イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆にお分けになった。人々は皆、食べて満腹した。(マルコ6:41~42) 「我らの日用...