2019年11月17日日曜日

2019年11月17日(エゼキエル書35〜36)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書19:1~22、エゼキエル書35~36

エゼキエル書35~36;
彼らは諸国民のところに行き、そこでわが聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『これは主の民だ。しかし彼らは主の地から去らなければならなかった』と言った。そこで私は、イスラエルの家が行った先の諸国民の間で汚したわが聖なる名を惜しんだ。(36:20~21)

主のお名前が、神の民のていたらくのために汚された。主に愛され、主のものであったはずの民が裁かれ、約束の地から離れ、惨めに生きている。それを見た異邦人たちは主を侮る。そのようにして、神を信じているはずの者たちのために主のお名前が汚された、それを私は惜しむと神様は言われます。
思えば、十戒にもすでに「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20:7)と記されていました。この『主の名』は、十戒の前文にも「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、。奴隷の家から導き出した者である」という神様の自己紹介で紹介されています。
改めて考えてみると、神様に名前は必要なのでしょうか?神様は神様であって、それ以上の名前を必要とはしないのではないでしょうか。名前というのは、他と区別をするためのものです。「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」というのであれば、名前は最初から必要ないのではないでしょうか。
しかし、神はそのようにはお考えになりませんでした。神は、私たち人間が「主」とお呼びするようにと決め、ご自分を名前を持って呼ばれる存在として私たちに紹介してくださったのです。ですから、「主」という神様のお名前は、それ自体が私たちへの愛のしるしなのです。
その主なる神様のお名前が汚されたというのは、神の聖なる愛が汚されたということに他なりません。私たちのために、神のお名前が損なわれたのです。「私はあなたがたを、そのすべての汚れから救う」(36:29)と神は宣言してくださっています。神は、私たちの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。この方が私たちを救ってくださる。主の皆を呼び求める歩みを、今日重ねていきたいと願います。

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