2019年11月17日日曜日

ルカによる福音書第13章6から9節「良い木なんです、本当は」

 今朝の御言葉は主イエスがなさった一つの譬え話です。「そして、イエスは次のたとえ話を話された」とありますが、聖書を続けて読むと、明らかに1から5節の対話の続きです。ローマから派遣された総督ピラトがガリラヤ人の何人かを惨殺した、という出来事があったようです。あるいはここで言及されているもう一つの出来事は、シロアムの塔が崩れて18人が死んだ。そのような災害や人災に遭ったとき、私たちにも素朴に湧いてくる問いがあります。これは、何かの罰なのだろうかということです。どうなのでしょうか。主イエスは何とおっしゃるのでしょうか。

 「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」シロアムの一件についても、ほとんど同じようにおっしゃいます。そして、それに続けて次のたとえ話に移っていくのです。
 ある人がぶどう園にいちじくの木を植えた。桃栗三年柿八年、ではいちじくは何年なのか?よく分かりませんが、いずれにしても植えてから何年か待って、ついに実りを付けるであろう大きな木に成熟し、楽しみに待っていたのだと思います。しかし、実を付けませんでした。今年も、来年も、そしてその次の年も。遂にしびれを切らせて園丁に言います。「もう三年の間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」ぶどう園の主人の怒りはもっともです。むしろ、三年も待ったことが驚きです。植えたときから数えたら、足かけ何年なのでしょう。じっと忍耐して待って、しかし一向に実を付けないことに、遂に「切り倒せ」という言葉が出てきました。

 ところが、園丁は訴えます。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」もう一年待ってください。園丁はそうお願いしました。私がこれまで以上に世話をしますから、もう一年だけ待ってください。実際に世話をしてきたのは園丁です。実際に骨折り損を担ってきたのは園丁です。しかし、この園丁はまだ忍耐し続けて、まだ待ちましょうと訴えます。この優しい園丁は、主イエスご自身に他ならない。

 これは、悔い改めの物語です。いや、悔い改めを待ち続けるキリストの忍耐の物語です。私たちの悔い改めを待つために、もう三年どころか、どれだけ長い年月を費やしたことでしょう。それなのに、まだ切り倒さないでいてくださいます。思えば、私たちはぶどう園の中に植えられたいちじくのような存在なのかもしれません。どうして一本だけいちじくなんて生えているのでしょう。ぶどうではない自分は邪魔なんじゃないか、不要なんじゃないか。実を付けない自分なんて無駄じゃないか。私たちは自分で自分のことをそのように低く見積もっているかもしれない。ところが、この園丁は、まだ一年待ちましょう、そのための世話は私がしますと言ってくださいます。このキリストの優しさに触れたとき、私たちにも真実な悔い改めが生まれるのだろうと私は思います。

2024年4月27日の聖句

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