2019年11月21日木曜日

2019年11月21日(エゼキエル書43〜44)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書21:1~14、エゼキエル書43~44

エゼキエル書43~44;
かつてエルサレムの神殿から去った主の栄光が、再び神殿を満たします。エゼキエルが幻の内に見た神殿です。「主の栄光は東に向いている門を通って神殿に入った。霊が私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。すると、主の栄光が神殿を満たしていた」(43:4~5)。
神に裁かれ、神がすでに不在になった場所に、再び主が帰って来てくださる。これこそ救いです。しかも、その場所が新しい神殿であることには深い意味があると思います。
神の民の救いは、礼拝が再び礼拝として献げられることです。生ける神様の御前で、神の栄光の前にひれ伏し、まことの神をまさしく神としてあがめ、ひれ伏して礼拝する。これこそが私たちの救いです。改革者カルヴァンは、人生の目的は神を知ること、神を崇めるために神を知ることだと言いました。エゼキエルが見た幻は、まさにそのような意味で私たち人間が救われる日が来る、というヴィジョンだったのです。
第44章に入ると、この神殿で仕える人々について語られていきます。主に仕えるべきレビ人たちのかつての不実。「彼らは自分の恥辱と自分が行った忌むべきことの責任を負わなければならない」(13節)。神様は、罪を罪として処断なさいます。どうでも良いとはおっしゃらない。責任を負わせ、しかしそれで排除するのでもなく、「私は彼らを神殿のつとめを果たす者とし、神殿のあらゆる労働とそこで行われるすべての任務に当たらせる」(14節)。汚れた者を、神は再び聖なる者としてくださいます。「祭司は私の民に、聖と俗の区別を教え、汚れたものと清いものとの区別を知らせなければならない」(23節)。神の民の再出発は、聖なる神の御前にあって、私たちが聖と俗とを区別し、自らを清いものとして神に献げること、つまり礼拝から始まります。「こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です」(ローマ12:1)。主なる神様は、私たちを神様の御前で聖徒の一人としてくださっているのです。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...