2019年12月13日金曜日

2019年12月13日(アモス書8〜9)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録13、アモス書8~9

アモス書8~9;
これを聞け。貧しい者を踏みつけ、地の苦しむ者を滅ぼそうとする者たちよ。あなたがたは言う。「新月祭はいつ終わるのか。穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか。麦を売り出したいものだ。エファ升を小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかし、弱い者を金で、貧しい者を履物一足分の値で買い取ろう。また、屑麦を売ろう」(8:4~6)。
不正な取引をして私腹を肥やす者たち。その犠牲になっているのは、貧しい者や苦しんでいる人々です。升も分銅も天秤も、何もかも曲がっています。強い者の都合のよいようにルールがねじ曲げられています。そのようにしながら、言うのです。「新月祭はいつ終わるのか」「安息日はいつ終わるのか」と。主なる神様のために献げる礼拝なんて早く終わらせて、さっさと商売に戻りたい。しかも、不正な富を稼ぐための商売を早く再開したい。そのためには、礼拝なんて邪魔だと言っているのです。
これは、私たちの不断は隠れいる「本音」に対する鋭い洞察なのではないかと思わされます。どこかに自分にも覚えがあるのです。恐ろしいことに。しかし、神様はそのような不正を裁かれます。「その日が来るーー主なる神の仰せ。私は地に上を送る。それはパンへの飢えでも、水への渇きでもなく、主の言葉を聞くことへの飢え渇きなのだ」(11節)。主は、ご自分の御言葉を遠ざけることによって裁かれる。言葉を換えれば、私たちが、神様の御言葉を蔑ろにし、それを退けているということ自体がすでに神の裁きなのだということではないでしょうか。
神の民は、神に選ばれた民です。特別な恩寵によって生かされてきました。しかし、神様は、もっと大いなるお方です。この世界のすべてをお造りになった。「イスラエルの子らよ。私にとってあなたがたは、クシュの人々と変わりがないではないかーー主の仰せ」(12:7)。だから、私たちはこの大いなるお方の前で身を低くして、へりくだって、神様に従いたいと願います。私たちの欲は、果てしなく大きくなっていきます。しかし自分を大きくするために他者を犠牲にするのではなく、神様の御前にへりくだって、小さくなりたい。主が、小さな者を救ってくださるから。「その日には、私はダビデの倒れた仮庵を起こし、その破れを修復し、廃墟を復興させて、昔の日のように建て直す」(11節)。

2024年4月30日の聖句

主よ、思い起こしてください、あなたの憐れみと慈しみを。それはとこしえからあるもの。(詩編25:6) しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。この憐れ...