2020年1月13日月曜日

2020年1月13日(マタイによる福音書10:24~42)

マタイによる福音書10:24~42;
「家の主人がベルゼブルと言われるなら、その家族の者はなおさら悪く言われることだろう」と、主イエスは言われます。ベルゼブルは悪霊の頭の名前です。ここで主イエスが言う「家の主人」というのは、主ご自身のこと。主イエスは悪霊の頭だと言われていた。私の弟子であるあなたたちも、同じように呼ばれるだろうと言われます。
実際に、9:34で「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言われています。人々を癒やし、口の利けない人に取りついていた悪霊を追い出し、口を利けるようにしたイエスに向かって、人々は、それは悪霊の力を利用しているのだ、と言いました。主イエスにおいて働いている神の力を認めたくなかったのです。
そして第10章になって主イエスは弟子たちを遣わし、今度は弟子たちにご自分の業を担わせます。すると、今度はあなたたちも私と同じように「悪霊の頭の力を遣っている」と言われないわけにはいかないだろう、と主は言われる。この世界が私を拒んだように、あなたたちも拒まれることになる、ということです。
私は、人から嫌われるのがとても怖いです。しかしそうやって人目を気にしていると、肝心なことが言えなくなってしまいます。「だから、誰でも人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める。しかし、人々の前で私を拒む者は、私の天の父もその人を拒む。」操守は言われます。キリストの福音は、それが語られれば、平和ではなく剣をもたらす言葉になります。キリストを証しするなら、必ず拒否される、ということを経験しなければなりません。誰かに嫌われないわけにはいかない。私にとってそれはとても怖いことです。人から嫌われるようでは、却って神様の邪魔になるのではないかという言い訳もしたくなります。しかし、主は、それでいいと言っておられるのだと思います。「弟子は師を超えるものではなく、僕は主人を超えるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。」私たちは、キリストがそうなさったように、言葉においても行いにおいても、神の国の福音に生きればそれでいい。その結果は、キリストが引き受けてくださいます。ただ肝心なのは、「体を殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな」ということです。人ではなく、ただ神を恐れる。そうすれば、人への恐れから解放されます。「あなたがたは髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れることはない。あなたがたは、たくさんの雀よりも優れた者である。」神が、この私の命を覚え、この小さな私を覚えていてくださる。だから、何も恐れることはない。主イエス・キリストの限りない慈しみの中に、この私も覚えられているから。

2020年1月26日(マタイによる福音書21:1~22)

マタイによる福音書21:1~22; エルサレムに入城した主イエスに、人々は「ダビデの子にホサナ」と叫び、喜んでお迎えしました。、まず、群衆です。「大勢の群衆が自分の上着を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホ...