2020年1月14日火曜日

2020年1月14日(マタイによる福音書11)

マタイによる福音書11;
「イエスは十二人の弟子に命じ終えると、方々の町で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。」第10章で、主イエスは12人の弟子たちを選んで、汚れた霊に対するご自分の権能を授け、宣教のために派遣なさいました。それに際しての説教がこの章では続いていましたが、今朝の11:1に至って話を終えられた。「そしてイエスは彼らを遣わされた」と続けば自然ですが、ここではそうではありません。主イエスご自身が、方々の町で教えたり宣べ伝えたりするために、そこを立ち去って行かれます。弟子も遣わされたに違いありませんが、主イエス様はそこでじっと待っていたというのではなく、ご自身がさらに宣教の旅へと出て行かれるのです。そこで主がなさったのは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と言われているとおりのことだったのでしょう。主の業が、そのようにして進んでいます。
そんな主イエスに、洗礼者ヨハネが人を遣わして尋ねさせます。「来たるべき方は、あなたですか。それとも、他の方を待つべきでしょうか。」ヨハネは牢の中にいましたから、不安になったのだろうと思います。本当にこの方を信じ続けて好いのだろうか、と。それに対し、主イエスは「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と言いました。私が出て行って宣教しているその姿をヨハネに伝えてほしい、私のしていることを聞くことで、ヨハネにも信じてもらいたい、と。
ヨハネ自身も、実際に彼がしたことに誰も耳を傾け、語る福音が届かないという経験をしてきた人でした。結局、人々はイエスのこともヨハネのことも信じようとはしない。「ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、食べたり飲んだりすると、『見よ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きが証明する。」人々はイエスがしておられることもヨハネがしていることも結局は見ていない、そこで働いておられる神様の御業を見ようとしないので、結局信じなかったのだ、と主は言われます。その不信仰への嘆きが、20から24節の厳しい言葉なのではないでしょうか。
だから、幼子のように、主イエスがしておられるそのことによって、主を信じてほしい。主イエスはそう言われます。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい」と私たちを招かれます。主イエス様が私たちの目を開き、この足を立たせ、私たちを清め、この耳を開き、死ぬべき私たちのための命の言葉を語り、福音を聞かせてくださっているからです。だから、主は私たちを休ませることがおできになる。あなたも与っている福音、あなたを休ませ、平安を与える福音を信じてほしい。主イエスは、私たちにそう語りかけておられるのではないでしょうか。「私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私のには軽いからである。」これが、主イエス・キリストの、私たちのための招きの言葉です。

2020年9月21日(テサロニケの信徒への手紙二3)

テサロニケの信徒への手紙二3 「どうか、平和の主ご自身が、いついかなるときにも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。主があなたがた一同と共におられますように。 私パウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印で、私はこのように書きます。私たちの主イエス・キリ...