2020年2月23日日曜日

2020年2月23日(ローマの信徒への手紙11:13~36)

ローマの信徒への手紙11:13~36;
「ユダヤ人は不信仰のために折り取られ、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。神が自然に生えた枝を惜しまなかったとすれば、恐らくあなたを惜しむこともないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。厳しさは倒れた者に向けられ、神の慈しみにとどまるかぎり、その慈しみはあなたに向けられるのです。」
パウロは、今、ユダヤ人が不信仰と不従順に陥っている現実を見つめています。そして、この手紙を読んでいる異邦人キリスト者たちに、神の慈しみを思い起こさせます。もともと、神様はアブラハムを選び、その子孫であるユダヤ人をお選びになり、ご自分の民となさいました。ところがユダヤ人は不信仰と不従順に陥ってしまった。それがゆえに、異邦人に福音がもたらされた。だから、異邦人キリスト者のあなたがたは、ユダヤ人をさげすむのではなく、ただ神の慈しみと厳しさを思って恐れよ、とパウロは言います。
この手紙で繰り返し繰り返し、パウロが私たちに訴えることは、私たちは何の功績によって選ばれたわけではなく、ただ神の慈しみのゆえに信仰に入れられた、という事実です。だから、私たちには高ぶることはできません。神の慈しみの事実を思えば、それはまったく不可能なことです。
ときに、信仰生活に失敗してしまうことが私たちにはあります。教会を離れてしまった。何らかの罪を犯して敷居が高くなってしまった。牧師や長老を続けてはならないような過ちを犯した。あるいは、教会生活が重荷になったり、煩わしくなったりしてしまうこともあるかもしれません。私がその当事者になるかもしれないし、身近な人であるかもしれません。そんなとき、私たちは自分のことも隣人のことも裁くのではなく、ただ神の慈しみと厳しさに心を向けたいと願います。何の功もない私を選んでくださった神の慈しみです。そして何よりも、キリストを十字架にまでおつけになった神の厳しさです。神を畏れ、身をかがめて、一人の赦されなければ生きられない罪人として、神様の御前に出て行きます。神に赦された罪人として、神様の御前に頭を垂れて生きていきたい。罪人の群れの中に帰って行きたい。そう願います。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...