2020年3月31日火曜日

2020年3月31日(マルコによる福音書9:1〜29)

マルコによる福音書9:1~29;
「信じます。信仰のない私をお助けください。」
一人の父親の言葉です。この人の息子は悪霊に苦しめられていました。「霊がこの子を襲うと、所構わず引き倒すのです。すると、この子は泡を吹き、歯ぎしりをして体をこわばらせてしまいます。」この子が今何歳なのかは分かりません。父親は小さいときからこのような症状に苦しめられてきたと言っています。すでに幼くはないのでしょう。もう何年間も苦しんできました。父親や、ここには登場してはいない母親は、どんなにか心配で、苦しんできたことかと思います。この子の苦しみを少しでも自分が代われればと願ったことか、しかしどんなに願っても現実にはそんなことはできない。辛いことです。そんな父親が、主イエスに助けを求めました。「もしできますならば、私どもを憐れんでお助けください」と。
これまで何年も苦しんできたのなら、たくさんの医者に診せてきたはずです。誰もこの子を助けることができませんでした。更に、イエスの弟子にも診せました。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」どうに治して欲しいと期待し、何度その期待を裏切られてきたことか。弟子たちでも、だめでした。そんな父の心境を考えると「もしできますならば」という言葉は、私たちにも心情としてよく分かります。
しかし、キリストは断乎として言われます。「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる。」主イエスは、これまで誰に裏切られ、どんなに期待外れに終わってきたとしても、神を信じることだけはやめてはならない、と言います。父は、ただこう答えました。「信じます。信仰のない私をお助けください。」主はこれに応え、汚れた霊を叱りつけて追い出し、この子の手を取って起こし、この子は再び立ち上がることができました。
私たちは、キリストを信じることだけはやめてはいけません。しかしその「信じる」ということは、私たちの精神力ではありません。私たちの強い気持ちのことではありません。私たちには信仰がないのです。絶望的な状況の中で、心が折れてしまいます。そんな私をまるごと主にお委ねし、「信仰のない私をお助けください」と主イエス様の手にすがる祈りを、主は私たちの信仰として受け入れてくださいます。信仰というのは、神様がくださるものです。それだけに、信じるというのは尊いことです。
僅か8歳で亡くなった高橋順子さんが遺した詩に曲がつけられた賛美歌があります。「どんなときでも、どんなときでも、苦しみにまけず、くじけてはならない。イエスさまの、イエスさまの、愛をしんじて。」アーメン、と静かに心を合わせたい。

2024年4月19日の聖句

ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。(創世記6:22) (イエスの言葉)「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ7:24) 風水害や地震などの自然災害の多い場所に住んでいると、今日の主イエスの言葉はよく分かります。「岩の...