2020年3月9日月曜日

2020年3月9日(ヘブライ人への手紙9)

ヘブライ人への手紙9;
「以上のものがこのように整えられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。これによって聖霊は、第一の幕屋が存続しているかぎり、聖所への道はまだ明らかにされていないことを示しておられます。この幕屋とは、今という時代の比喩です。そこでは、供え物やいけにえがささげられますが、礼拝する者の良心を完全にすることはできません。」
旧約の律法には、神を礼拝するための幕屋の造り方が事細かに規定されていました。聖なる場所をその他の場所から区別します。その中でも、聖所の奥に至聖所があり、そこには大祭司だけしか、しかも一年でたったの一日しか入ることができません。律法は聖なるものと俗なるものとを区別することによって、私たちに神様の聖さを教え込みます。
しかしこの幕屋は、今という時代の比喩だとこの手紙は言います。この幕屋に入る大祭司は、民の罪と自分自身の罪のために、毎年同じささげ物を捧げ続けなければならない。そういう、不完全な業です。その供え物によっては、礼拝する者の良心が完全にされることはないのだ、と言うのです。
先ほど、旧約の律法ではそのように定められている、と書きました。確かにこの幕屋の造り方を定めているのは旧約の律法ですが、これは単に旧約から新約、そして今はそれよりも後の時代というふうに、一直線な時間の経過を現しているだけではないのではないかと思います。事柄の差、意味の差がそこにはるのではないだろうか。つまり、キリストを知らないところでささげる礼拝の営みは、私たちの良心を完全に満たすことができない、ということです。時間の差ではなく、キリストという大祭司がおられるかおられないか、という事柄の差です。
キリストは、「ご自身の血によってただ一度聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」イエスの血という完全なささげ物がささげられたので、もう毎年繰り返して献げなおす必要はありません。この方がご自分をささげて十字架に掛けられたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。聖所への道は、もう明らかになったのです。キリストご自身がその道になってくださいました。キリストは、「世の終わりに、ご自身をいけにえとして献げて罪を取り除くために、ただ一度現れてくださいました」。キリストがすべて完全にいけにえを献げてくださいました。だから、私たちは大丈夫です。もう、大丈夫なのです。

2024年3月29日の聖句

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