2020年5月16日土曜日

2020年5月16日(ルカによる福音書15)

ルカによる福音書15
このメールで引用している聖書の言葉は、新しい翻訳の「日本聖書協会共同訳」です。訳注が所々に付いています。今日のところでもいくつもありますが、特筆すべきは4節の「その一匹を見失ったとすれば」、8節の「その一枚を無くしたとすれば」、24節の「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」です。これらの見失った、無くした、いなくなっていたにそれぞれ注が付き、4節と8節には「直訳『失った』、24節には「直訳『失われていた』」とされています。つまり、羊も、銀貨も、息子も、すべて同じように失われた存在だったと主イエスは言われます。
ぜひ今日から取り入れていただきたいと思うのは、特に三つ目のたとえ話がよく「放蕩息子の譬え」と呼ばれていますが、それは今日からやめて、聖書に合わせて「失われた息子の譬え」と呼んでくださるとよいと思います。この息子も、羊や銀貨と同じように、失われていたのです。「放蕩」という倫理道徳の問題ではありません。父のもとから失われていた、つまりこの父親の姿に託して語られている神のもとから失われていたということが急所です。
そして、もう一人の息子の兄息子も、父の目から見たら失われた存在だったのでしょう。彼はこの話の最後まで、弟が帰ってきたことを共に喜ぼうと呼びかける父の言葉を拒んでいます。兄の目には、弟の倫理的な過ちばかりが目に付いています。たぶん、ずっと我慢していたのだと思います。自分は我慢して父親の元にいて真面目にやって来たのに、好き勝手に生きる弟はずるい、更に、失敗しておめおめ帰って来たのに受け入れられるなんてますますずるい。そういう正義感に根ざした怒りに燃えていたのだろうと思います。
今私がこの物語を読むと、自分の心がいかに兄息子の心に根ざしているかを思わされます。彼の怒りが、私の心にもあると言わないわけにはいきません。今の社会には怒りが満ちあふれています。非日常が続き、非日常が日常になろうとしています。しかしそれになかなか順応できない。イライラが募ります。自分の小さな正義が絶対であるように思い込んでしまう。弟を糾弾し、自分の正義を貫いた兄息子。弟に自分の勝手な評価を押しつけ、父も一緒に怒るべきだと主張する兄息子。怒りに震える彼の姿は、私の姿です。ただ一つの救いは、それでも父が兄に呼びかけ続けていてくださることです。この声に立ち帰る道が備えられていることを謙遜に受け止め、主の御許に帰って行きたいと、今、願います。

2024年4月27日の聖句

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