2020年5月20日水曜日

2020年5月20日(ルカによる福音書18:18〜43)

ルカによる福音書18:18~43
「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人を連れてくるように命じられた。

誰に叱られても、どんなに黙れと言われても、この盲人はイエスに向かって叫び続けました。「ダビデの子よ、私を憐れんでください。」彼のこの叫び、「私を憐れんでください」という叫びは、その後キリスト教会が大切にしてきた祈りの言葉になりました。昨日の箇所にも「憐れんでください」とありました。特に、「主よ、憐れんでください」という祈りは、原文ギリシア語の音をそのままに「キリエ・エレイソン」という祈りの言葉として広く祈られてきた。主の憐れみを求める一筋の心の祈りです。
特に、呼吸に合わせてこの祈りをささげる伝統もあります。吸う息に合わせて「主よ」と唱え、吐く息に合わせて「憐れみたまえ」と心の中で繰り返します。あの盲人の心に合わせて、私たちも祈りましょう。誰に止められても、誰が叱っても、何者も私たちの祈りをやめさせることはできません。そして何より、主はこの祈りに耳を傾けて、立ち止まってくださいます。「イエスは立ち止まって、盲人を連れてくるように命じられた。」
ルカは31から34節の、三度目になるイエスの十字架予告の直後にこの盲人のことを報告しています。それには意味があるのだと思います。主イエスは、もう三度目になる十字架の師の予告を弟子たちになさいました。しかし、「十二人は、これらのことが何一つ分からなかった」と言います。主イエスが繰り返しおっしゃってきたことでしたが、彼らには理解することができませんでした。
しかし、イエスをその目で見ることができなかった一人の盲人が、イエスに憐れみを求めて叫びます。彼の信仰の目は開いていました。一途に憐れみを求めて叫ぶこの声に、主イエスは信仰を見出してくださいます。私たちには、分からないことがたくさんあります。今起きている出来事の意味のすべてを私たちが知ることは、許されていません。神さまがなさることの始めから終わりまでを見極めることは。しかし、私たちには見えなくても、主イエスさまの憐れみを求めて叫ぶことはできます。見えない私を、主よ、憐れんでください、と。主イエス・キリストは必ず足を止めて、私たちに向き合ってくださいます。

2020年5月30日(ルカによる福音書23:26~55)

ルカによる福音書23:26~55 そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。するとイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。 イエスが十字架にかけられたとき、右と左にも十字架が立てられ、それぞれに犯罪人...