2020年5月21日木曜日

2020年5月21日(ルカによる福音書19:1〜27)

ルカによる福音書19:1~27
11節以下のムナの譬えは、私たちにはマタイによる福音書が伝えているよく似た譬え話であるタラントンの譬えの方が聞きなじみがあるのではないかと思います。読み比べてみると、よく似ているのに、随分と違う所も目立ちます。
まず、ムナとタラントンというお金の単位が違います。聖書の最後に付いている「度量衡および通過」という表を見てみると、一ムナは100ドラクメに相当する。1ドラクメは一日の賃金に相当します。これに対して、1タラントンは6000ドラクメの価値があります。タラントンはムナに対して60倍の価値がある。更に、マタイが伝えるタラントンの話では5タラントン、2タラントン、1タラントンと預けた額に差がありますが、ルカの伝えるムナの譬えでは「10人の僕を呼んで10ムナの金を渡し」とあり、一人一ムナずつ預けています。
また、ムナの譬えには、預けた主人を巡る世間の評判が書かれています。「その国の市民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王に戴きたくない』と言わせた。」そして物語の最後、マタイでは預けられた一タラントンを活用しなかった人はそのタラントンを取り上げられ、追い出されました。ところが、ムナの譬えでは、この人はムナを取り上げられますが、裁かれるのはこの主人が王になることを望まなかった世間の人たちえです。
そして、ルカはこの譬えを徴税人ザアカイの話の直後に伝えていfます。ザアカイは金にがめつい男でしたが、イエスと出会い「私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します」と言いました。
私はムナの譬えのポイントは、冒頭の「ご自身がエルサレムに近づいてこられたのに、人々は神の国がすぐにも現れると思っていたからである」という言葉だと思います。エルサレムに近づくというのは、主イエスからしたら十字架に近づくということです。人々の神の国待望が、十字架の抜きのそれになっていた。これに対してザアカイは、イエスとの出会いによって生き方が変わった人物です。お金の使い方は生き方そのものです。ムナの譬えも、イエスの十字架を前にしたとき、私たちの生き方が変わるはずだという話ではないかと思います。
私たちの目には持っている物に差があるように感じますが、ここで主イエスは、同じ一ムナを預けたと言われる。差があるかどうかということよりも、むしろイエスを王として受け入れようとしない世界で、預かった物をどう活用するかに関心を持っておられる。イエスを快く思わない世界でイエスに預けられたものによって生きるのは、簡単ではありません。しかしイエスと出会い、イエスを信じて生きる人生に向き合い、その課題に取り組むとき、主イエスは私たちを喜んでくださいます。ザアカイをお喜びになったのと、同じように。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...