2020年5月5日火曜日

2020年5月5日(ルカによる福音書9:37〜62)

ルカによる福音書9:37~62
弟子の一人のヨハネが言います。「先生、あなたのお名前を使って悪霊を負いだしている者を見ましたが、私たちと一緒に従って来ないので、やめさせました。」それに対し、主イエスは「やめさせてはならない」と言われます。「あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」と主は言われます。
また、主イエスはサマリア人の町で歓迎されませんでした。それで弟子のヤコブとヨハネは言いました。「主よ、お望みなら、天から火を下し、彼らを焼き滅ぼすように言いましょうか」と。主は彼ら二人をお叱りになりました。
これら二つの話はとてもよく似ていると思います。どちらにも使徒ヨハネが登場している点もそうでありますが、それだけでなく、話の性質が似ています。自分の思い通りにならない者を見て、神の権威を笠に着て懲らしめてやろうという話です。とても傲慢です。しかし、私は、いかにも自分がすぐに考えることだと思います。
最初の話は、他の人も自分と同じようでなければならないというヨハネの気持ちが透けて見えます。他の人の、自分とは違う信仰のあり方を認めることができない。自分の型にはまっていないことが許せない。二つ目の話は、自分の怒りを神の怒りとすり替え、神の名を騙って自分を正当化するということになると思います。どちらも、私もよく知っている気持ちです。
どちらも、主イエスのお心に、弟子たちは気づいていませんでした。最初の話は、十字架へと向かうという主の二回目のお言葉のすぐ後に出てきた、弟子たちの「自分たちのうち誰がいちばん偉いかという議論」に続く出来事です。自分や自分の所属集団が絶対だと感じてしまうとき、他のあり方を許容できなくなってしまいます。二つ目の話は、この段落の冒頭の言葉が大切なのだと思います。「天に上げられる日が満ちたので、イエスはエルサレムに向かうことを決意された。」そして、イエスがサマリアで歓迎されなかったのは、「イエスがエルサレムに向かって進んでおられたから」です。つまり、これら二つの出来事の本当の共通点は、十字架へと向かうイエスに逆らう、という点です。そこが本当の急所です。
主イエス・キリストの十字架の前で、私たちの罪が明らかになります。見えてきてしまいます。このキリストの十字架にこそ私たちの救いがある。そのことを謙遜に受け止め、受け入れたいと願います。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...