2020年6月26日金曜日

2020年6月26日(使徒言行録17:1〜15)

使徒言行録17:1~15
パウロはマケドニアを巡り、テサロニケへ、そしてベレアへと進んでいきます。テサロニケでは三週間にわたって、毎週の安息日に会堂で聖書の話をし、論じ合ったようです。「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアは、私が伝えているイエスである」と、パウロは語りました。それで、聞いていた者たちのうちの何人もの人がイエスを信じ、パウロやシラスの仲間になったのでした。ところが、ユダヤ人たちはそれを妬み、当局者に訴えます。パウロとシラスは皇帝の勅令に背いて「イエスという別の王がいる」と言っている、と。
少なくともここに書かれている限りでは、パウロは「イエスという別の王がいる」と、ユダヤ人たちが訴えているような意味では言っていません。彼らが言ったのは、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアは、私が伝えているイエスである」ということです。なぜ、この言葉が、「イエスという(皇帝ではない)別の王がいる」という話になってしまったのか。
まず考えられるのは、妬みのために訴える口実をでっち上げた、ということです。しかし、そうであるにしてもまったく根も葉もないことをでっち上げても、すぐにえん罪だと気づかれてしまいます。でっち上げにしても、聞いた者に説得力のある言葉でなければ意味がありません。ということは、「イエスがメシアである」という福音のメッセージは、「イエスという別の王がいる」という言葉と、ある部分ではよく似た響きがあるということに他ならないと思います。
私たちは、イエスをメシア、救い主、キリストと信じています。それは、イエスを私の王と信じ、受け入れるということでもあります。テサロニケで問題になったのは、今日で言えば「政治的なメッセージ」です。イエスをメシアと信じれば全生活に対して影響がある以上、政治的な次元での変革は避けられないのではないでしょうか。それは、今私たちが○○党に投票すべきだというようなことよりも、もっと根本的なことです。私の実際的な王は誰か、という問いです。単に心の問題ではなく、私たちの生活が誰を王とした営みなのか、という問いです。パウロもシラスも、イエスを王として生き、そのために迫害されました。
思えば、主イエスご自身、十字架にかけられたときの罪状書きは「これはユダヤ人の王」でした。私たちの王は、十字架にかけられています。侮辱され、捨てられ、奪い取られた方が私たちの王である。それは私たちの生活への変革を呼び覚ます事実です。私たちはこの方によって、神に向かって「あなたの御国が来ますように」と祈るように召された、神の国の民です。イエスという別の王がいる。メシアであるイエスは私たちの王。それは、真理です。

2020年7月10日(使徒言行録27:1〜26)

使徒言行録27:1~26 パウロは皇帝がいるローマに向かって船で護送されることになりました。しかし、船出してすぐに向かい風のために思うように航海を進めることができなくなってしまいました。季節性の風なのでしょう。港に寄港しながら風が収まるのを待って、航海していこうとしていました。し...