2020年7月25日土曜日

2020年7月25日(マタイによる福音書25:31〜46)

マタイによる福音書25:31~46
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」
壮大なイメージを持って語られています。主イエスが再び来られるとき、主はすべての国民を羊を右に、山羊を左に分けるようにより分ける、つまり裁きを行うと言われます。キリストの王としての裁きです。
この裁きの時、王であるキリストは右にいる人々に言います。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに尋ねてくれたからだ。」すると右側にいた人々は答えます。「主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、喉が渇いておられるを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、見知らぬ方であられるを見てお宿を貸し、裸でおられるを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」それに対し、キリストはお答えになります。「よく言っておく。この最も小さなものの一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」
キリストは左側にいる人々に対しても、同じように言われます。ただ、全く逆に、あなたたちは私が飢えていたときに食べさせず、喉が渇いていたときに飲ませず、・・・と言われる。それに対し、彼らも同じように答えます。「主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、よそ者であったり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お仕えしなかったでしょうか。」すると、王は言われます。「この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。」
重要なことは、両者共に、いつ自分がそれをし、あるいはしなかったのかを自覚していないということです。最も小さなものの一人にした愛の業、あるいはしなかった愛の業を、主は覚えておられます。最も小さなものの一人にしたこと、しなかったことというのは恐らくその対象だけではなく、愛の業自体も小さなものに過ぎないのだと思います。だからこそ、自覚できていない。しかし、そのような小さな愛の業に生きることを主は永遠の意味を持って覚えておられるというのです。私たちは今日、そういう小さな愛の業に召されています。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...