2020年8月17日月曜日

2020年8月17日(コリントの信徒への手紙一15:29~58)

コリントの信徒への手紙一15:29~58
「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ、霊の体に復活します。自然の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」
疫病にさらされると、私たちの肉体の弱さを痛感させられます。いや、弱いのは肉体だけではありません。私たちの精神もまた弱い存在です。肉体の弱さと共に心もぐらつきます。今、私たちの社会に蔓延している不安感、怒り、投げやりな心、そういうものは私たちの弱さから生まれているのだと思います。私たちの心も体も弱く、やがては朽ちるべきものです。
日本人の伝統的な死生観を研究した人が、日本の死生観を大きく二つに分類して紹介していました。一つは、自然回帰型。死んだ者の魂は山や海といった自然に帰る。そこから生者たちを見守り、あるいはいつか生まれ変わって再びやってくる。もう一つは、共同体回帰型。死んだ者は家族の霊、村落の霊として、生者たちと共にいる、やがて「じいちゃんの生まれ変わり」として赤ちゃんとして生まれ変わる。そういった考え方です。
しかし、聖書はそのどちらにも同意しません。私たちは、死んで滅び行く存在です。私たちの肉体や心と同じように、魂も死んで滅びてしまう。しかし、キリストが私たちの初穂として死者の中から復活したことにより、死ぬべき者、滅びるべき者が復活させられる命への通路が生まれました。私たちは、滅びます。肉体も心も魂も。ところが、私たちは「朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ、霊の体に復活」するのです。キリストと同じように!
私は、聖書の死生観の急所は、神様との関係であると思っています。先ほどの自然回帰型の考え方は、私たちの命を自然との関係の中で捉えていました。自然の大きな循環の中に私たちの命の位置を見つけ出しています。共同体回帰型は、家族や村人とのつながりに命の位置を見つけ出しています。ところが自然は意志を持たない曖昧模糊としたものですし、共同体は実際には死を前にして無力です。聖書は、私たちの命の位置を神様との関係に見ています。私たちは本当は土くれに過ぎない儚いものです。しかし、神がそんな私の鼻に命の息を入れて生きる者にしてくださり、神様の御顔の前に生かしてくださいました。私たちの生きるすべての日は神の前にあり、死を迎えるときにも、神様は私たちをご自分のものとしていてくださいます。私たちの命は、神様の前にあります。
だから、私たちの死の向こう側についても、神様に安心してお任せしていい。それが、神様から私たちへのメッセージです。私たちは神の大いなる手の中で、生きるときも死ぬときも、慈しみ深い神のものとして歩むことができるのです。

2024年3月29日の聖句

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