2020年8月2日日曜日

2020年8月2日(コリントの信徒への手紙二2)

コリントの信徒への手紙一2
「きょうだいたち、私がそちらに行ったとき、神の秘儀を告げ知らせるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした。私の言葉も私の宣教も、雄弁な知恵の言葉によるものではなく、霊と力の証明によるものでした。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためでした。」
パウロの二度目の宣教旅行の時のことです。アテネに行ったパウロは、他の多くの都市でそうであったような目に見える成果を上げることができませんでした。アテネの人たちは珍しい物好きだったので、パウロが話す外国の宗教の話に興味を持ちました。しかし、話が核心にいたりキリストの復活の話に及ぶと、パウロを馬鹿にして立ち去ってしまいました。それで、パウロはアテネを離れてコリントに向かいます。
パウロは「そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした」と言っています。それが具体的に何を意味するのかはよく分かりません。もしかしたら、アテネでの手痛い経験が影響していたのかも知れません。いずれにしても、コリントに到着したパウロは堂々とした態度や素晴らしい知恵の言葉によって宣教をすることはできませんでした。却って不安でビクビクし、そこに雄弁な知恵の言葉はなかったのです。
普通、失敗によってスランプになり、ますます自信喪失になる負のスパイラル・・・とでも言うような状況です。しかし、パウロは、そういう状態でコリントに行ったことはあなたたちのためには却ってよかったのだ、と言っています。それは、パウロが立派な知恵や素晴らしい雄弁を披露し、それがすごいと言われてしまうのではなく、神の霊と神の力だけによって、神の愚かさである十字架の言葉だけに集中できたからです。
パウロは強がりでそういうふうにいっているわけではありません。本気で、コリントに行ったとき自分が弱くてよかったと、弱さを誇っています。キリストの力が現されるために、自分は喜んで弱くなるとパウロは考えているのです。
私たちの間にあるのは、十字架の言葉だけです。キリストの十字架だけが私たちの結び目です。神の弱さによって私たちは救われた。その事実に、今日も新しい思いで立ち帰りたいと願います。

2024年4月19日の聖句

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