2020年8月26日水曜日

2020年8月26日(コリントの信徒への手紙二8)

コリントの信徒への手紙二8
「それは、他の人々に楽をさせて、あなたがたに苦労をさせようというのではなく、平等にするためです。今この時、あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、いずれ彼らの余裕もあなたたたの欠乏を補うことになり、こうして、平等になるのです。『多く集めた者も余ることがなく、少なく集めた者も足りないことはなかった』と書いてあるとおりです。」
何を持って平等とするのかというのは、簡単な問題ではないと思います。社会主義であれば「結果の平等」を求めます。つまり、富がすべての人に等しく分配されることをもって平等とします。民主的な資本主義社会であれば「機会の平等」をもって平等と考えるのだろうと思います。確かに結果をすべて同じにするというのは非現実的です。しかし、実際には機会の平等もありえません。生まれた家の環境、経済状況、地域格差、性別、人種、・・・あらゆる点でスタートラインが全然違います。機会の不平等があまりにも固定的であれば、結果の平等を求める声にも一理あるような気がします。
しかし、聖書には聖書の平等観があります。「多く集めた者も余ることがなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。」これはエジプトを出たヘブライ人たちが食べたマナの話に出てきた言葉です。神様は毎日マナを与えてくださいました。毎日くださるので、そのことを信頼し、一日に一人あたり一オメルだけ集め、余計に集めて貯蓄することを禁じました。その言葉に従ってマナを集めると、多く集めた者も少なく集めた者も、オメル升で計ると皆ぴったりになった。「多く集めた者も余ることがなく、少なく集めた者も足りないことはなかった」のです。ここに聖書の平等観が端的に表れています。多く必要なものには多く与えられ、少なく必要なものには少なく与えられる。おのおの分に応じて神が必要を与えてくださる。それが聖書の平等観です。
しかし、現実にはそう言われても納得できません。実際、ある者には富が有り余り、他の者は窮乏している。それを神様が必要とお考えになった分が与えられているのだと言われても、それは金持ちの横暴というものです。そこで、パウロは言うのです。多く与えられた者は少ない者のために献げよ、と。聖書の平等は献金の上に成り立ちます。ある者に余裕があるのなら、それは献金するための余裕です。その献金によって窮乏している者が生きることができる。立場が逆になったときには逆のことが起こります。すべては神が預けてくださったと信じて献げる。そういう私たちの献身を促すために、ある者には多く、ある者には少なく与えられています。
今、私たちの隣人である香港の教会は、窮乏の状況におかれています。7月の豪雨被害に遭った教会も同じです。今、私たちに僅かでも余裕があるとしたら、それは献げるための余裕に他ならないのです。そうやって献げるとき、私たちに「信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、私たちから受ける愛など、すべての点で満ちあふれている」ことを知ることになるのです。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...