2020年8月27日木曜日

2020年8月27日(コリントの信徒への手紙二9)

コリントの信徒への手紙二9
「聖なる者たちへの奉仕について書くのは、もうこれで十分でしょう。あなたがたの熱意を知っているからです。その熱意について、私は、アカイアでは昨年からすでに用意ができていると言って、マケドニアの人々にあなたがたのこを誇りました。あなたがたの熱心は多くの人を奮い立たせたのです。」
ここで「聖なる者たち」と言っているのは、エルサレム教会の仲間たちのことです。詳しくは使徒言行録第11章27節以下に載っていますが、ローマ帝国をクラウディウス帝が支配していた時代に世界大の飢饉が起こり、エルサレム教会は大打撃を受けました。教会の仲間たちは食べるにも事欠くようになった。それで、「弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住むきょうだいたちに援助の品を贈ることを決めた」のです。エルサレム教会は異邦の国々で宣教をしていたパウロに、エルサレムの貧しい者たちのことも忘れないでいてほしいと求め、パウロ自身もそれに応えていました。当時の(今でもそうですが)エルサレムは、世界地図の上では辺境の地です。M.ウェーバーという社会学者は、古代ユダヤ民族を指してパーリヤ民族(不可触民)、つまりアウトカーストの身分だと評価したそうです。エルサレム教会は教会としては中心地ですが、社会的には極貧の集団だったのだと思います。対してパウロが伝道をした小アジア、マケドニアやギリシアは文化的にも経済的にも発展していましたので、圧倒的にこちらの方が経済的な余裕があった、という事情があります。そういう背景の中で、パウロは新しく生まれた教会にエルサレム教会のための献金を求めたのです。
教会と教会のつながりは、2000年も前から、献金という具体的な仕方で具現化していました。抽象的な、あるいは理念上のつながりではありませんでした。異邦人の教会はエルサレム教会から福音を聞き、エルサレム教会は異邦人教会のささげ物によって生き延びました。異邦人教会は、神様から与えられた恵みをエルサレム教会に分け合ったのです。「この奉仕の業は、聖なる者たちの欠乏を補うだけでなく、神への多くの感謝で満ちあふれるものになる」のです。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...