2020年8月4日火曜日

2020年8月4日(コリントの信徒への手紙一4)

コリントの信徒への手紙一4
「あなたがたに裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、私は何ら意に介しません。私は、自分で自分を裁くことすらしません。私には少しもやましいことはありませんが、それで義とされているわけではありません。私を裁く方は主です。ですから、主が来られるまでは、何事についても先走って裁いてはなりません。」
私たちの教会は「長老教会」と呼ばれる教会の伝統を引き継いでいますが、この教会はスイスの改革者、ジャン・カルヴァンに遡ります。このカルヴァンという人のモットーは、ラテン語でいうと「コーラム・デオ」というものでした。「神の御前で」という意味です。私たちは神の御前で生きている。あるいは、神のみ前に進み出て神を礼拝し、神に祈り、神を賛美する。そこにある畏れと信仰こそ、カルヴァンという一人の信仰者のあり方だったようです。
私は、使徒パウロというこの手紙を書いた人物こそ、コーラム・デオ、神の御前での人生を生きた人だと思います。神のみ前に行き、神を畏れ、敬い、神に向かって生きていく。だから、人から裁かれることを意に介することはありません。これは私にとっては驚くべき言葉です。私が人目に弱いからです。人に裁かれたり、悪い噂が立つようなことに弱いと、結局は神様の御前ではなく「世間の前」で生きることになります。「世間の前」の生の基準は世間の目です。そうなると、心の中はやましいことだらけです。人目が基準ですから、隠れたところでは何でもできる。しかし良心はそれを知っています。あるいは、やましいところはないと強弁するより他ありません。結局、曖昧で移ろいやすい人の目や世間の評価に翻弄されているだけだから。それは、本人にとっても辛い生き方です。
神の御前に生きたパウロは、神に向かって生き、神への誠実に生きました。だから、人にやましいところはない。しかしそれを鼻にかけたり、それを神様の前に持ち出すのではなく、「私を裁くのは主です」と言い切りました。これが神の御前で生きるということなのだと思います。
私たちの今日の日の営みも、神様の御前での一日です。他の誰よりも先に、私たちは神様に対して誠実に生き、神が与えてくださった隣人を愛する。その営みは、神の御前での営みです。主イエス・キリストが、今日も、私たちと共にいてくださいますように。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...