2020年8月5日水曜日

2020年8月5日(コリントの信徒への手紙一5)

コリントの信徒への手紙一5
「現に聞くところによると、あなたがたの間に淫らな行いがあり、ある人が父の妻と一緒になっているとのことです。それでも、あなたがたは高ぶっているのですか。むしろ悲しんで、そのような行いをしている者を自分たちの中から排除すべきだったのではありませんか。」
パウロはコリント教会で起こっていた具体的な事件を念頭に置いているようです。この教会の中に性的な不品行があった。父の妻というのは、自分自身の母親ということではなく後妻ということなのだろうと思います。しかしそういう立場の女性と関係を結ぶ男が教会の中にいた。これは、おそらくコリントの性的文化として起こっていたことなのであろうと思います。世間で起こっているのと同じことが教会で起こっているというのはどういうことか、とパウロは問うているのだと思います。
最初の時代に教会が伝道をした世界は、かなり性的にオープンな土壌だったように思います。そういう意味では、現代社会と似ているところもあるのかも知れません。パウロは、そういう世界に生きる信仰者である私たちは、世間とは違う肉体の使いかをするはずだ、と言っているのだと思います。さらに言えば、10節や11節には「淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を礼拝する者」というふうに話が進んで行くとおりに、性を含む私たちの肉体の欲望との付き合い方の話なのだと思います。欲望を追求し、それを達成することが善だと世界は教えます。それは、2000年前でも今でもあまり変わらないのだろうと思います。テレビコマーシャルは私たちが持たないこと、欲望を達成しないことが如何に不幸なのかを教えます。しかし、私たちはキリストの十字架という神の弱さ、愚かさによって救われたのだから、自分の欲望を追求する競争によって人間らしさをはかるのは止めよう、とパウロは呼びかけているのだと思います。
ただ、パウロは、そのように言って世間を閉め出し、付き合いを止め、自分たちだけで閉じこもって勝手に聖なる者になるのもおかしいと言います。あくまでも世界には開かれている。そこにある欲望は、私たち自身の欲望です。しかし、それに追随するのではなく、十字架のキリストに心も体も向けて生きていく。性もまたキリストにあって祝福の内にあります。私たちのこの肉体をつくってくださった神様を、私たちはこの肉体をもって崇め、礼拝する。肉体をもつ私たちの日々の営みもその祝福の中にあります。

2026年2月3日の聖句

貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。 人の災難を喜ぶ者は罰を免れない。(箴言17:5) 神は、世の貧しい人を選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。(ヤコブ2:5) 献金は、天国への入場料ではありません。多額の献金をするこ...