2020年8月9日日曜日

2020年8月9日(コリントの信徒への手紙一8)

コリントの信徒への手紙一8
「しかし、知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます。」
私は高校一年生の時に洗礼を受けました。その時にある方からお祝いに聖書を頂きました。表紙を開くと洗礼の記念という旨の書がしたためられていて、そこに冒頭の聖書の御言葉が添えられていました。「知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます。」もっとも、当時は新共同訳聖書でしたので、冒頭の聖書協会共同訳と少し違う訳文でした。意味するところは全く同じです。そのようなこともあって、私にとってはとても印象深い聖書の言葉です。
このコリントの信徒への手紙の文脈では、知識というのは、偶像に備えられた肉に関する知識です。コリントはギリシアの町で、町中至る所に偶像がありました。そういう神々に備えられた肉が市場に卸されてきて、町の人がそれを買って食べることができたようです。すると、キリスト者になったギリシア人は困ってしまった。一度偶像に備えられた肉を食べても良いのか、と。これからお盆を迎えますが、仏壇に上げられた食べ物を食べて良いのか、というのと同じ問題です。
パウロは、そのようなことは全く問題がないと言います。「この世に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、私たちは知っています。」そもそも偶像の神々など存在しないのだから、別にどこに備えられたのであろうと気にせず食べて差し支えない。それが偶像についての正しい知識です。
しかし、それで話は終わりません。「しかし、この知識が誰にでもあるわけではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんできたせいで、偶像に献げた肉として食べ、良心が弱いために汚されるのです。」世の中に偶像の神などいない。そのことへの核心が弱いあまり、偶像に備えられた肉を食べることに良心の呵責を覚え、結局肝心の主イエスへの信仰が揺らいでしまう結果になりかねない人もいる。そうすると、結局問題は偶像それ自体ではなく、それに立ち向かう私たち自身ということになります。そして、パウロは、その点で弱い人を切り捨てるのではなく、自分の知識に基づく自由を、弱い隣人のために制限しようと言います。「それだから、食物が私のきょうだいをつまずかせるなら、きょうだいをつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません。」
私たちの時代、私たちの社会の中では、肉を食べるかどうかは特に問題にもなりません。しかし、自分の正しい知識のために、弱い人をつまずかせてしまう可能性があるという問題はいつでもあるのだと思います。そのようなときに、パウロは言います。「知識は人を高ぶらせるが、愛は人を造り上げます。」私たちは愛に従って生きていきたい。それは、「このきょうだいのためにも、キリストは死んでくださった」からです。

2024年4月20日の聖句

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