2020年8月10日月曜日

2020年8月10日(コリントの信徒への手紙一9)

コリントの信徒への手紙一9
「私は誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました。より多くの人を得るためです。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法の下にある人には、律法の下にある人のようになりました。律法の下にある人を得るためです。私は神の律法を持たないのではなく、キリストの律法の内にあるのですが、律法を持たない人には、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱いに人には、弱い人になりました。弱い人を得るためです。すべての人に、すべてのものとなりました。ともかく、何人かでも救うためです。福音のために、私はすべてのことをしています。福音に共にあずかる者となるためです。」

パウロのこの徹底した自由に、私は心からの憧れと尊敬を抱きます。福音のために、私はすべてのことをしています。パウロはそう言い切ります。そうであるからこそ、小アジアに行き、マケドニアに行き、ローマにまでも行くことができたのでしょう。どこに行ってもパウロがしたのは、キリストの福音を伝道することに就きました。なんとかして、何人かでも、キリストの福音に共にあずかるために。パウロはそのことに心を傾け、自分の命も傾けて生きていました。
キリストと出会う前のパウロはそうではありませんでした。自分がユダヤ人であること、ファリサイ派の一員であること、そういうことを誇りにしていました。言葉を換えれば、それにこだわっていました。こだわりは時に自分を不自由にさせます。しかし今やキリストにあって自由になり、ユダヤ人であることにも律法にもこだわりません。だから、ギリシア人にはギリシア人のようになれる。律法を持たない者には律法を持たない者のようになれる。それでいて、ユダヤ人をばかりにしたり、律法を大切にして生きている者を軽んじたりはしません。彼はユダヤ人にはユダヤ人のように、律法の下にある者には律法の下にある者のように接し、なんとかして、彼らの心にキリストを届けたのです。
何という自由であろうかと思います。彼を自由にしたキリストの福音が、あまりにも素晴らしかったのでしょう。その一事に尽きるのです。このキリストは、私たちをも自由にしてくださいます。目の前にいる人、出会った一人の人のために、この人にキリストを紹介するために、私たちも自由にされています。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...