2020年9月20日日曜日

2020年9月20日(テサロニケの信徒への手紙二 1~2)

テサロニケの信徒への手紙二1~2
「実際、あなたがたを苦しめている者には苦しみをもって報い、苦しめられているあなたがたには、私たちと共に安らぎをもって報いてくださるのが、神には正しいことなのです。それは、主イエスが力ある天使たちと共に天から現れるときに実現します。」
パウロは主イエスが再び来てくださるという「その時」に焦点を合わせて生きることの大切さを訴えます。私たちの生き方を定める基準は、主イエスが再び来てくださってなさる裁きにある。主の御前に私はいかなる生き方をしているのか?この世では迫害され、苦しみを味わうことが多いでしょう。しかし、主はそれを覚え、必ず報いてくださる。そのようにして今この時を見つめ直してほしいとパウロは言います。
ところで、先ほど「焦点」という言葉を使いました。この言葉には関心や注意の集まるところという意味だけではなく、数学で楕円という図形を作図するときの基準の点の意味もあります。楕円は「二つの定点からの距離の和が一定になる点の軌跡」で、これら二つの定点を「焦点」と呼びます。つまり、楕円を書くためには二つの基準になる点が必要だ、ということになる。私たちの生き方を定めるための点も、二つあると思います。
というのは、パウロが2:2で「主の日がすでに来たかのように言う者がいても、すぐに理性を失って動揺したり、慌てふためいたりしないでほしい」と言っています。主の日というのは、主イエスが再び来てくださる日のことです。その日だけが唯一の基準になると、今ここに生きるということの意味をしっかりと捉えられなくなってしまいます。キリストは再び来てくださる。それは、キリストがそう約束なさった以上確実なことです。ただし、それは「まだ」です。私たちは必ず来てくださるキリストを待ち望みつつ、今日という新しい日を生きています。キリストが来られるのが「まだ」だということもまた神様がお決めになった以上、新しい今日という日を地に足着けて生きる責任が私たちにあるのではないでしょうか。
キリスト者の生の二つの焦点、それは「既に」と「未だ」です。すぐにも来ると約束したキリストは、既に私たちと共にいる。しかし、未だ世の終わりは来ていない。「既に」と「未だ」という二つの時の間に私たちは生きているのです。
そんな私たちの生きるための羅針盤は、ただただキリストご自身の福音が込められた聖書の御言葉に他ならない。私たちはキリストの到来を待ちつつ、また早めつつ、今日という与えられた新しい一日を生きていきます。

2024年4月23日の聖句

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