2020年10月30日金曜日

2020年10月30日(ヨハネによる福音書8:1~30)

ヨハネによる福音書8:1~30
「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

姦淫の現場で捕まえられて衆人環視のもとイエスのところに連れてこられました。彼女を連れて来た律法学者たちやファリサイ派の人々は、イエスに言います。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたは同お考えになりますか。」律法学者やファリサイ派は、モーセの律法を引き合いに出しています。彼らにとって律法はイエスを陥れるための道具であり、ここにいる一人の罪を犯した人を排除する正当性を担保してくれる保証書です。
この律法を巡る話は第7章から続いています。イエスがガリラヤ出身だということで、本物のメシアであればベツレヘムから出るはずだと聖書に書いてあると言われていました。もう一つは、イエスを裁くファリサイ派の人々に向かって、やはりファリサイ派の一人であったニコデモが「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたのかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と訴えたと書かれています。さらに、8:12以降では、主イエスが「あなたがたの律法には、二人で行う証しは真実であると書いてある」と言っていて、ここにも律法の話題が継続しています。
話題としては律法(聖書)の話が続いていますが、しかし、聖書の読み方は皆が同じというわけではなく、態度が真っ二つに分かれています。ファリサイ派を初めとする人々にとっての律法は、人を排除したり、自分たちの正しさを証明するための道具です。ところが主イエスにとっては神様の真実を証しするものであり、あるいはニコデモはイエスに耳を傾けるように促すメッセージを聖書から聞き取っています。
私たちは聖書をどのように読むのでしょうか。自分の正しさを証明するための言葉なのか、あるいは神様の真実やキリストの憐れみを証言する言葉、虚心坦懐にキリストに聞くよう促す葉なのか。聖書が自分の正しさを保証してくれるのであれば聖書は道具に過ぎませんが、キリストの真実を明かしするのであれば、私たちには操作することのできない神の言葉です。私たちは、聖書の言葉にどのように聞くのでしょう。聖書が証言する真理に開かれた耳でありたいと願います。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...