2021年1月23日土曜日

2021年1月23日(詩編27)

詩編27
私が主に願った一つのこと
私はそれを求めよう。
命のあるかぎり主の家に住み
主の麗しさにまみえ
主の宮で尋ね求めることを。(4節)

詩編の中にはたくさんの麗しい言葉、美しい言葉があります。その中でも特に輝いているのが、この言葉であると思います。主の家に住み、主の麗しさにまみえ、主を求める。それこそが私のただ一つの願い。私たちも、この詩編に心を合わせて願い求めたいと思います。そうすれば、私たちの心も麗しくなるのではないでしょうか。
この詩編は「主はわが光、わが救い」と言っています。だから「私は誰を恐れよう」。なぜなら「主はわが命の砦」だから。誰に対してもおののくことがない、と宣言します。裏を返せば、今現に恐れおののくような現実に直面していたということでもあります。「悪をなす者が私の肉を食らおうと近づく」のです。自分を食い物にしようとする世間はまことに厳しい。しかし「私の信頼は揺るがない」。
こういう文脈で「命のあるかぎり主の家に住み」たいと願っている。うっかり「主の家に住む」というのは厳しい世間の現実から逃げることだと勘違いしないようにしたいと思います。しかし、この詩編の信仰は現実逃避の考え方とは違うと思います。「災いの日に、主は私を仮庵に隠し」と言っています。仮庵というのは、出エジプトをしたイスラエルの人々が40年間の荒れ野での旅の時に生活をしたテントのことです。仮庵というのは現実逃避どころか、荒れ野という本当に厳しい厳しい旅のための住まいです。神が準備してくださる住まいは、荒れ野の旅を生きぬくための住まいです。
私たちは毎週日曜日に神さまの御前にでて、神さまを礼拝しています。神さまに遣わされた場所で、神さまに与えられた使命を果たすために、私たちは神の家に帰って神さまを礼拝する。これが私たちの仮庵です。神の家は、荒れ野のど真ん中にあります。神を礼拝するとき、私たちは知ることになります。この方は私のことを決して見捨てず、見放すこともない、と。例えわが父、わが母が私を捨てるときにも、神が私を捨てることは絶対にないのだ、と。だから、今どんな敵に囲まれていようとも、恐れるべき者は何一つない。この荒れ野の旅は神が共にいてくださる旅だから。
私たちのために独り子を下さった神の愛の麗しさを礼拝する。それが神の家の営みです。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...