2021年1月9日土曜日

2021年1月9日(詩編11〜12)

詩編11~12
主は悪しき者の上に罠を、火と硫黄を降らせる。
燃える怒りの風は、彼らの杯が受けるべきもの。
主は正しき方、正義を愛される。
心のまっすぐな人は御顔を仰ぎ見る。(11:6~7)

悪しき者と正しき者とを裁くのは主なる神。詩編11はそのように断言します。主が愛する心のまっすぐな者への報いは、その人が御顔を仰ぎ見ること。神の御顔を仰ぐことに救いを見ているということが、この詩編の魅力だと思います。
この詩編は、冒頭で「悪しき者」に対してこのように言います。「主のもとに私は逃れた。なぜあなたがたは私の魂に言うのか。『小鳥よ、山に飛んでゆけ』と。」この「私」は、相手と比べて圧倒的に弱く、対抗できる力もなく、逃げるしかありません。逃れる「私」を見て、悪しき者たちは言うのです。「小鳥よ、山に飛んでいけ」と。自分たちのコミュニティから追い出してやろう、さっさと目の前から消えろということなのだろうと思います。そして、「私」自身、この人たちともう一緒にいることはできない。ここから逃れるしかない。ただ、山に逃げるのではありません。「主のもとに私は逃れた。」他のどこでもなく、主のもとに逃れる。なぜなら、主のもとに行って神の御顔を仰ぐことが、私の救いだからです。
その意味では「逃げる」といっても、どこかに行ってしまうということではないのかもしれません。神の御許に逃げる。すなわち、祈りに向かうということなのではないでしょうか。ここではないどこかに行くのではなく、人を避けて閉じこもるのでもなく、この世界のただ中で祈り、御顔を仰いで救いをいただき、再びこの世で生きていく。そういう祈りなのではないでしょうか。

続く詩編12でも、やはり主が救いでいてくださるということを告白します。
主は言われる。
「苦しむ人が虐げられ、貧しい人が呻いている。
今こそ、私は立ち上がり、
あえぎ求める者を救いに入れよう。」(12:6)

人々は滑らかな唇で大口を叩き、私を惑わし、苦しめる。しかし、主の御言葉が私の救い。弱い私を救うために立ち上がってくださるのは、主なる神様。そのような確信をもって、神さまの御前にまっすぐな心で生きていきたい。私もそのように願います。

2024年3月29日の聖句

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