2022年2月8日火曜日

2022年2月8日の聖句

恐れるな、人が中傷しても。またぎょっとするな、人が嘲っても。(イザヤ51:7)
信仰の戦いを立派に戦い、永遠の命を獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。(1テモテ6:12)

人の中傷や嘲りは、正直言って怖いし、ぎょっとしてしまいます。人目を気にするようになると、人に悪く言われないことを基準にしだして、正しいか正しくないかということとは別の尺度で自分の行動を決めるようになってしまいます。しかし、それでは信仰の戦いを闘い抜くことはできません。信仰は人目ではなく、キリストの目が基準だからです。
「信仰の戦いを立派に戦い、永遠の命を獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。」ここに「あなたはこのために召され」という言葉があります。私たちは信仰の戦いを闘い抜くために神さまから呼び出されたのです。
昨年の夏に「アウシュヴィッツ・レポート」という映画を観ました。アウシュビッツでたくさんのユダヤ人が殺されたことを今私たちは知っていますが、当時はあの場所で何が行われているのか、外に知らされることはありませんでした。実はそこに収監されていたある二人の人が脱獄してその情報を知らせたことによって、初めてその実態が明らかになった。そのときのことを描いた映画です。思えば、毎年のようにナチの蛮行は映画になっています。ドイツではそれを反ドイツ的だと言って退けるのではなく、ナチの行いに目を向け続けています。恐れず、ぎょっとせず、自分たちの国の歴史を直視している。この事実の前に呼びだれたとき、それにしっかりとレスポンスしている。そうやってレスポンスすることを、レスポンシビリティ、責任と言います。
私たちは、私たちの行いについても、あるいはこれからの人生についても、信仰の戦いに呼び出されています。その呼び出しにいかに応答するのでしょう。どうやって責任を果たすのでしょうか。私たちのレスポンシビリティはどのように発揮されるのでしょう。私たちは、人から呼ばれるだけではなく、神さまから呼ばれています。その呼び出された場へ信仰をもって応え、永遠の命に至る道を歩むように、神さまは私たちを招いておられるのです。

2024年4月27日の聖句

「私には罪がない」とか、「主の怒りは私から去った」とあなたは言う。「私は罪を犯していない」と言ったために、今、私はあなたに裁きをもたらす。(エレミヤ2:35) イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。(ルカ23:42) 十字架にかけられた一人の罪人が主イ...