2022年5月24日火曜日

2022年5月24日の聖句

主よ、どうか烈しく怒らないでください。いつまでも咎を憶えていないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに心を留めてください。(イザヤ64:8)
ヨハネは書く:私の子どもたち、これらのことをあなたたちに書くのは、あなたがたが罪を犯さないためです。またもし誰かが罪を犯しても、私たちには父の前でとりなしてくださるイエス・キリスト、義しい方がおられるのです。(1ヨハネ2:1)

今日の御言葉を読んで、私は、以前録音で聞いた北森嘉蔵という牧師がしたパウロの回心の説教を思い出しました。パウロはかつてはファリサイ人の急先鋒としてキリスト者たちを迫害し、誰彼構わずに縛りあげ、あるいはステファノが石打にされた時に石を投げた人たちの服の番をしました。パウロがダマスコに向かう時、突然天から光がさし、パウロは倒れた。パウロに声が聞こえました。「パウロ、パウロ、なぜ私を迫害するのか。」北森牧師は、このとき、この声の主であるイエスは「パウロ、よくもやってくれたね。よくもステファノを石で打ち殺してくれた。お前が私を十字架にかけたも同然だ。痛かったぞ」とは言わなかった、と指摘します。ただ、「なぜ私を迫害するのか」と事実を問い、更に「起きて町に入れ」と言って、次にするべき事を教えてくださった。イエスはパウロに恨み辛みを告げて、この時を愁嘆場にしなかった。こうやってパウロは赦され、立ち直ったのだ、と。北森牧師が「赦すとは忘れることだ」とおっしゃっていたのが印象的でした。
主なる神さまが私の罪や咎をすべて覚え、烈しくお怒りになるのなら、一体どうやって私は生きられるのでしょうか。神さまが私に抱かれる恨み辛みはどんなに烈しいことでしょう。ところが神さまは、ご自分の義しさを赦しによって発揮してくださいました。私たちの主イエス・キリストにあって、私たちの罪をもはや思い返さず、私たちに新しい将来を拓いてくださったのです。神は私たちの罪ではなく、私たちが神の民、神の子であることを心に留め、私たちを新しくしてくださいました。
今日は、恵みの日です。今日こそ、救いの日です。主イエス・キリストにあって、私たちは神の子、神の民として、この新しい一日に送り出されています。

2024年5月3日の聖句

耳の聞こえない人を呪ってはならない。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。(レビ19:14) (イエスの言葉)あなたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。(ルカ6:36) 悪意を持ってわざと耳の聞こえない人を呪ったり、目...