2022年6月1日水曜日

2022年6月1日の聖句

主はもろもろの民の裁きに当たられる。(詩編7:9)
私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされ、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行った仕業に応じて、報いを受けなければならないからです。(2コリント5:10)

主の裁きと言われると、誰もが恐ろしく感じるのではないでしょうか。主なる神さまの前ですべてが明らかにされ、善であれ悪であれすべてが裁かれると言われて平然としていられる人など、いないのではないかと思います。ところが今日読んでいるコリントの信徒への手紙を書いた使徒パウロは、今日の箇所の前のところから読んでみると、意外な書き方をしています。
「それで、私たちはいつも安心しています。もっとも、この体を住みかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。というのは、私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいるからです。それで、私たちは安心していますが、願わくは、この体という住みかから離れて、主のもとに住みたいと思っています。だから、体を住みかとしていようと、体を離れていようと、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」そして、今日の箇所に続きます。
ここでパウロは「安心しています」と繰り返しています。キリストの裁きの座のことを考えながら、この人は安心している。これはとても意外なことではないでしょうか。それどころか、主のもとに住みたいと言っている。早くキリストのもとに行きたい。言いようによっては、キリストの裁きの座に早く行きたい、そして主のもとにいさせて頂きたい、ということになる。この人には、どうしてそのようなことが言えるのでしょうか。
それは「だから、体を住みかとしていようと、体を離れていようと、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」という一句に端的に表れている、信仰者パウロの主イエスさまへの愛のなせることです。パウロは主イエスを愛しているから、主のもとに早く行きたいし、主に早くお目にかかりたい。パウロの心を占めていたのは、主イエスへの愛です。だから、パウロにとってはキリストの裁きの座に出ることは恐ろしいことではなく愛するキリストにお目にかかる喜びの時です。私たちの行いは、真剣に考えれば考えるほど、駄目なことばかりです。しかしそれ以上に私たちを救うキリストの真実は確かです。主イエスさまを愛し、主のために生きたいと願う者を主が捨ててしまうことなどあり得ないことです。だから、キリストの真実で生かされたこの命を、愛する主に喜んで頂くために献げたい。それがパウロの願いであり、私たちの願いです。

2024年5月3日の聖句

耳の聞こえない人を呪ってはならない。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。(レビ19:14) (イエスの言葉)あなたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。(ルカ6:36) 悪意を持ってわざと耳の聞こえない人を呪ったり、目...