2023年1月2日月曜日

2023年1月2日の聖句

エフライムは私のかけがえのない息子、喜びをもたらすこどもではないのか。しばしば脅しもしたので、かえって思いをかけずにはいられない。だから、私のこころは砕かれ、憐れまずにはいられない、と主は言われる。(エレミヤ31:20)
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。(エフェソ2:4~5)

今日の旧約聖書の御言葉は、ドイツ語の聖書を日本語に翻訳したものだそうです。聖書協会共同訳では次のように翻訳しています。
「エフライムは私の大事な子ではないのか。あるいは喜びを与えてくれる子どもではないのか。彼のことを語る度に、なおいっそう彼を思い出し、彼のために私のはらわたはもだえ、彼を憐れまずにはいられないーー主の仰せ。」
冒頭にあるドイツ語からの翻訳では「(神が)しばしば(エフライムを)脅しもした」とありましたが、聖書協会共同訳では「彼のことを語る度に」と翻訳されているので、受ける印象がずいぶんと変わってきます。「脅す」と「語る」というのでは全然意味が違います。なぜここまで極端に異なる翻訳が可能になるのでしょうか。
実はここは少し難しいところです。もともとは「言う」とか「語る」という動詞が使われています。ただ、動詞の形が強意形という、動詞の意味を強める形になっています。この動詞が強意形で使われると、敵対的な意味で語るというニュアンスを含む場合もあります。ドイツ語訳はそちらの意味で解釈して「脅す」としたということなのでしょう。また、新共同訳もここは「退ける」と訳していたので、ドイツ語と同じ解釈をしています。聖書協会共同訳や他の英訳などでは単に「語る」という解釈を採用していました。どちらも可能です。
細かい話が長くなってしまいました。いずれにしても今日の御言葉の中心は、神さまのあわれみであることは間違いありません。あわれみを受ける私たちの有り様は、それにふさわしくなくむしろ神の怒りが適当な現実です。しかしそれに勝る神のあわれみは、ご自身の御心を砕き、痛めながら私たちに向けられています。神さまからご覧になれば、本来私たちに穏やかに話すことよりも、脅し、裁くことが正当です。しかしそれを凌駕する途方もないあわれみのために、私たちを愛してくださいました。背きの中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。私たちは神のあわれみと愛の途方もなさの中で、今日という新しい一日を始めていくのです。

2024年5月9日の聖句

主は彼らに喜びを与えられた。(エズラ6:22) いつも喜んでいなさい。(1テサロニケ5:16) 復活の主日から40日目の今日は、主の昇天を祝う日として覚えられています。主イエス・キリストは、弟子たちの見ている前で天に昇って行かれたと聖書に書かれています。キリストは天に昇り、神の右...