2023年4月17日月曜日

2023年4月17日の聖句

遠い地で主を思い起こせ。エルサレムを心に留めよ。(エレミヤ51:50)
あなたがたはいまや、もう客人でもよそ者でもありません。聖なる者たちの同胞であり、神の家族です。(エフェソ2:19)

今日の旧約聖書の御言葉の背景になっているのは、ユダ国が完膚なきまでに崩壊した時代です。バビロンという強大な国に滅ぼされ、ユダの主だった人々は遠くバビロンの地へ捕囚として連行されていきました。ユダは滅亡しました。バビロンはチグリス・ユーフラテス川の地方で、今で言うとイランの近辺にありました。ユダのあるパレスチナからしたらとても遠い場所です。ありとあらゆる屈辱を受け、灰の中に倒れ込むような日々であったはずです。
預言者エレミヤは、このときのことを「誉れある都、喜びの町は、どうして捨てられたのか(49:25)」と言います。私たちは捨てられた。神様の御前に罪を重ね、神を蔑ろにし、社会正義を軽んじ、公正を踏みにじり、神をあがめることも畏れることもなかった。神に棄てられ、私たちは滅びた。エレミヤはそのことを徹底的に嘆きます。
今日のエレミヤ書第51章は、そういう私たちを、しかし神がやがて救ってくださるという信頼と救済の預言です。神ご自身がやがてバビロンに報復し、ユダの救いを実現してくださる。そういうことを言った上で、更に言います。「遠い地で主を思い起こせ。エルサレムを心に留めよ。」あなたたちが神に裁かれ、遠い地に追いやられたとしても、それでも神はあなたたちを救ってくださる。だから、その場所で神を思い起こせ。神を礼拝し、共に喜んだ都を思い起こせ。神があなたを救ってくださるから。預言者はそのように言います。
神様の救いの御業は、私たちが思っているよりももっともっと、ずっと大きなものです。私たちの予想や想像では及びもつかないような、すばらしいものです。捕囚の民の目には、荒廃した国土や遠い異邦の地へ強制連行される自分たちの惨めな姿しか見えませんでした。しかし預言者は、そういう現実にもかかわらず、神の救いの御業を信じ、信頼していました。そして、このエレミヤと口をそろえるかのようにして、やがて主イエス・キリストの使徒となったパウロは言ったのです。「あなたがたはいまや、もう客人でもよそ者でもありません。聖なる者たちの同胞であり、神の家族です。」私たちが例えどこにいたとしても、私たちが外国人でもよそ者でも、主イエス・キリストは私たちを救ってくださる。私たちの思いを越えて。だから、神を信頼しよう、神を愛し、神に喜んで仕えよう。聖書は私たちを神様の大いなる救いの光の中に、新しく見出しているのです。

2024年5月8日の聖句

(主は)私の口に新しい歌を、我らの神への賛美を授けてくださった。(詩編40:4) あなたがたは、心の霊において新たにされなさい。(エフェソ4:23) 主が、新しい歌を授けてくださった。すてきな言葉です。「主に、新しい歌を」とは言っていません。主が私の口に新しい歌を授けてくださった...