2023年11月14日火曜日

2023年11月14日の聖句

(神の言葉)「私はいつまでも争うことはなく、永遠に怒ることもない。」(イザヤ57:16)
神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。(2コリント5:19)

北森嘉蔵という先生がおられます。『神の傷みの神学』という本を書きました。私は面識がありませんが、私の卒業した神学校の先生を昔なさっていました。サウロの回心を伝える使徒言行録第9章の説教を北森先生がされた、その録音を聞いたことがあります。サウロが激しくキリスト者たちを迫害していたときのことです。主イエスは光の中でサウロの前に現れた。サウロは「あなたはどなたですか」と言うしかない。そこでイエスは「よくもやってくれたな」とか「お前を恨んでいるぞ」などとはおっしゃらなかった。ただ、「なぜ、私を迫害するのか」と事実だけを伝え、また「私は、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ」と、次にすべきことを教えてくださった。もしもイエスが恨み辛みを述べていたら、この時の出来事は愁嘆場になっただろう。しかしイエスはそうではなく、これからするべきことだけを教えてくださった。そして、北森先生はおっしゃいました。赦すというのは、忘れることだ。相手の不義や罪、相手への恨みを忘れること。思い出していつまでも言っていては赦しにならない。忘れて、これからに向かうこと。それが赦すということ。サウロは主イエスに赦して頂いた。
「神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。」神がキリストにあって私たちに与えてくださったのは、和解の言葉です。私たちの罪の責任を問い、責任を取らせ、やっつけるための言葉ではありません。和解です。私たちのために神が手を伸ばしてくださった。そのために、神様はおっしゃいます。「私はいつまでも争うことはなく、永遠に怒ることもない。」神様はいつまでも争わず、永遠に怒ることもなさらない。私たちのために、私たちの不義や罪を忘れ、赦してくださる。私たちのために和解の手を伸ばしてくださる。だから、私たちも生きられる。
主イエスさまの和解の福音に、私たちは今日送り出されています。和解や赦しが私たちの人生の彩りです。罪や自己責任、糾弾ではない。愁嘆場が私たちの生きるべき場ではない。そのような運命に落ち込む私たちのための神の赦しの宣言、和解の福音こそが、私たちへの神様からのラブコールです。

2024年5月9日の聖句

主は彼らに喜びを与えられた。(エズラ6:22) いつも喜んでいなさい。(1テサロニケ5:16) 復活の主日から40日目の今日は、主の昇天を祝う日として覚えられています。主イエス・キリストは、弟子たちの見ている前で天に昇って行かれたと聖書に書かれています。キリストは天に昇り、神の右...